味噌を搗くならどんどと搗きゃれ(味噌搗き歌・仁多郡奥出雲町上阿井)

語り(歌い)手・伝承者:山田福一さん・1964年(昭和39年)当時53歳・他

味噌を搗くなら どんどと搗きゃれ
アラ 下に卵が ありゃしまい

うちのお家は 前から繁盛
アラ 今は若代で なお繁盛

うちのお背戸の 三つ又榎(えのき)
アラ 榎の実ゃならいで 金がなる
アラ 中見て底搗け

(収録日 1964年〈昭和39)8月11日)

解説

 伝承者の方々から「味噌は大きなヒシャクで、力を出してたたくように入れるものである」とか、また、「味噌を搗くときにはうたわないと腐る」と言われていたと教えられた。したがって、味噌搗き歌はその労作歌として、以前は盛んにうたわれていたようである。しかし、昭和60年に島根県教育委員会から出された民謡緊急調査報告書である『島根県の民謡』には、残念ながら味噌搗き歌は掲載されていない。1969年(昭和44年)に日本放送協会から刊行された『日本民謡大観』中国編では、亀嵩村(現在の奥出雲町亀嵩)の「味噌搗唄」として、次の2曲が紹介されていた。

味噌を搗きゃらば どんどと搗きゃれ
ヨイヨイ
瀬谷玉子は家では 置かぬ ホイ
瀬谷玉子は家では 置かぬ

高い山から 谷底見ればナ
アヨイヨイ
瓜や茄子の 花盛りナ
ハリワナヨイヨイ
コレワナドンドンドン

 初めの歌の後半の「瀬谷玉子は…」であるが、これは「下に玉子は…」とうたった出雲方言の訛りを、翻字するさい聞き間違え固有名詞のように「下に」を「瀬谷」と解釈したものと思われる。
 それはそれとして、わたしの収録した山田さんの歌や『日本民謡大観』にしても、最初の「味噌を搗きゃらば…」の詞章の歌は、まさに味噌搗き歌そのものであるが、それ以外の詞章は、いつどこでうたってもよく、他の労作歌でもうたわれる一般的な7775の近世民謡調の詞章である。したがって、各地の他の種類の労作歌とか安来節などの座敷歌でも広く用いられている。
 なお、「高い山から谷底見れば…」の歌は、江戸時代の宝暦年間(1751~1763)ごろに流行したもので、長野県の南信地方では盆踊り歌に使い、岡山市や下関市付近では餅つき歌としていたという(藤田徳太郎著『日本民謡論』1940年・萬里閣)。
 まさに自在に使われる民謡の姿を見るのである。