カラス カラス どこ行った・子守歌(隠岐郡海士町保々見)

語り(歌い)手・伝承者:徳山千代さん(明治37年生)

カラス カラス
どこ行った
わしゃ京へ麦刈りに
なんばほど刈ってきた
千石万石刈ってきた
仏の前で子を生んで
洗うこともできず
すすぐこともできず
お寺の茶柄杓(びしゃく)で
ちょちょっとすすいで
油の火であぶった
ねんねんや
ねんねんや

(収録日 昭和60年8月(日時不詳))

解説

 前に眺めた隠岐の島町元屋での歌、

カラス カラス 勘三郎
親の恩を忘れたか(茶山儀一さん・明治30年生)

 これは飛んでいるカラスに呼びかけるものが普通であったが、徳山さんの歌はそうではなく、いつしか子守歌になってしまっているという歌である。
 子守歌の中で、物語風の内容を持つものは、いろいろとあるが、この歌は主人公をカラスとし、それを擬人法でうたいあげるという一風変わったものである。
 カラスが京の町へ麦刈りに出かけ、千石も万石も刈ってきた。そこから先が問題である。お寺の町、京都のどこかの仏像の前で子どもを産み、洗ったりすすいだりすることが、どういうわけか難しく、仕方なくお寺の茶柄杓ですすいだまではよかったが、結局は、その子を油の火であぶるという大変な行為で終わっている。これではせっかくの子どもが焼け死にはすまいか、というドキリとした気持ちが残る。歌はそのまま何食わぬ形で「ねんねんや」をくり返して終わっている。まるでナンセンスを絵に描いたような物語になっているのである。
 この背景を流れているのは何だろうか。それとなくわが国が農業社会だったことを示しているようだ。しかもこの場合は稲作ではなく畑作の方である。それは「麦刈り」の語があり、「千石、万石刈ってきた」という行動がうたわれていることからも分かるのである。
 それではいったいこのような子守歌は、どういう人々がうたったのであろうか。改めて述べるまでもなく、わが国の中で大多数を占める、仏教信仰に厚い農民たちだったのに違いない。
 そしてカラスを主人公にしてはいるが、当然、これは自分たちの厳しい姿を反映させている内容になっていることはいうまでもない。つまり、休むこともなかなかできない農作業に追われ、働きに働いているうちに、お腹の子どもが産まれてしまったのである。産湯を使うところも見つからず、結局は農地の近くにあったお寺へ駆け込んで、茶柄杓を借りて、新生児を洗ったのであろうか。本堂の暗い中で灯されていた行燈に、洗って濡れた子どもや手をかざしたとでも解釈すれば、一応は納得が行く。
 けれども無理をして合理的な理屈をこじつける必要は、本当はないのかも知れない。というのも、わらべ歌の本質は伝承されてゆくうちに、いつしか別な歌をくっつけたり、思いつくままに途中で詞章をうち切ったりすることは、日常茶飯事なのである。そのようなことなので、気楽にこの歌も眺めていただきたい。