一わと書いて・手まり歌(隠岐郡海士町宇受賀)
語り(歌い)手・伝承者:村尾イシさん(明治19年生)
一わと書いて わしゃ石蹴らの
子ども衆こそ 石蹴るものよ
二わと書いて わしゃ庭掃かの
おなご衆こそ 庭掃くものよ
三わと書いて わしゃ産さがらの
かかさん衆こそ 産さがるもんじゃい
四わと書いて わしゃ皺よらの
年寄り衆こそ 皺よるもんじゃい
五わと書いて わしゃ碁は打たの
旦那さん方こそ 碁を打つもんじゃい
六わと書いて わしゃ艫(ろ)は押さの
船方衆こそ艫は押すもんじゃい)
七わと書いて わしゃ質入らの
貧乏すりゃこそ 質入るもんじゃい
八わと書いて わしゃ鉢割らの
きょろきょろすりゃこそ鉢めぐもんじゃい
九わと書いて わしゃ鍬持たの
鍬方衆こそ 鍬持つもんじゃい
十わと書いて わしゃ数珠持たの
坊さん方こそ 数珠持つもんじゃい
(収録日 昭和51年8月21日)
解説
昭和51年(1976)8月に全国から50名余りの民話と文学の会会員が、海士町を中心にして民話などの口承文芸の調査を行ったときの記録から紹介する。隠岐島前高校郷土部の諸君たち(50音順で、池田百合香、大上朋美、小新恵子、濱谷深希)は、このとき案内役として海士町各地を、彼らの先達となって案内する役を引き受け、参加者の方々から大いに感謝されたものである。
さて、この歌はわらべ歌の中の手まり歌として収録した。ごらんいただけば分かるように、一から十までの数字を頭に置いた数え歌形式で進んでいる。「~は〇〇ではない」と否定し、続いて「~こそ△△するものじゃい」と肯定するスタイルで統一されているのである。うたわれている内容は、日常生活で見聞きするものを集めたと言えばよいようである。
この歌は子どもたちの世界で好まれた模様であり、同類は本土の各地でも多く存在しており、わたしもあちこちで録音してきた。
ここらで少し横道に入る。前号にも記しておいたが、まずイラスト執筆の福本隆男君のことから紹介しておこう。現在では押しも押されぬイラスト作家として、好評を得ているのは嬉しい。
彼は、わたしが海士中学校に赴任したとき、二年生だった。昭和48年(1973)わたしが隠岐島前高校に転勤しており、彼も入学しサッカー部に所属していた。そして郷土部の機関誌『島前の民話』の挿絵を描いてくれるようになった。機関誌を作り始めたおり、イラストがあればよいと思い「誰か絵のうまい者はいないか」と部員に相談したら「サッカー部の福本君が上手です」と答えが返ってきたのがきっっかけだった。朝、彼に原稿を渡しておくと、放課後には絵が鉛筆書きで出来上がっていた。
機関誌も部員が鉛筆で仕上げ、謄写印刷で五〇〇部程度刷り、製本は松江の印刷所に依頼し、送り返してもらって完成した。郷土部では各地の希望者や研究者からの注文に発送作業を行ったものだった。