一番初めは一宮・手まり歌(隠岐郡海士町御波)
語り(歌い)手・伝承者:前田トメさん(大正3年生)
一番初めに 一(いちの)宮(みや)
二は 日光 東照宮
三また 讃岐の 金比羅さん
四はまた 信濃の善光寺
五つ出雲の大社(やしろ)
六つ 村々神々さん
七つ 成田の不動さん
八つ八幡(やわた)の八幡(はちまん)さん
九つ 高野の弘法さん
十で所の氏神さん
これほど信心したけれど
浪子の病(やまい)は治らせん
ゴウゴウ ゴウゴウ 行く汽車は
武夫と浪子の別れ汽車
二度と会えない汽車の窓
泣いて血を吐く 不如帰(ほととぎす)
(収録日 昭和51年6月12日)
解説
歌の背景は、徳冨蘆花の長編小説「不如帰」から題材をとっている。 明治31年(1898)11月から翌年5月まで『国民新聞』に連載された。その内容は海軍少尉川島武男と妻・浪子の愛情と悲劇を描いたもので、非常に人気が高く、各地で類歌はうたわれていた。
次に江津市桜江町川越のもの。お手玉歌として聞かせていただいた。
一番はじめが一宮
二また日光中禅寺
三また佐倉の宗五郎
四また信濃の善光寺
五つで出雲の大社(おおやしろ)
六つで村々天神様
七つ成田の不動様
八つ八幡(やわた)の八幡(はちまん)宮
九つ高野の弘法様
十で東京の日本橋
これほど心配かけたのに
浪子の病(やまい)は治りゃせぬ
武男が戦地に向かうとき
白い真白いハンカチを
うちふりながらも ねえあなた
早く帰りてちょうだいね
ゴウゴウゴウと鳴る汽車は
武男と波子の生き別れ
二度と会われぬ汽車の窓
なして血を吐く不如帰(島田ツチエさん・大正9年生)
ほぼ同様の形ではある。「なして血を吐く不如帰」の「なして」は「泣いて」が伝承の過程で変化したもの。
鳥取県米子市今在家のの歌。
一番はじめは一宮
二また日光東照宮
三また佐倉の宗五郎
四また信濃の善光寺
五つは出雲の大社
六つ村々鎮守様
七つは成田の不動様
八つ八幡の八幡宮
九つ高野の弘法さん
十で東京明治神宮
これほど心願かけたのに
波子の病は治らない
ゴウゴウゴウゴウ鳴る汽車は
武男と波子の生き別れ
二度と会われぬ汽車の窓
泣いて血をはく不如帰(米村玉江さん・大正3年生)
かつての女の子たちに歓迎されていた手まり歌だったのである。