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いやじゃいやじゃよ紙すき仕事(紙すき歌・鹿足郡吉賀町椛谷)

語り(歌い)手・伝承者:大田 節蔵さん 1895年(明治28年)生

いやじゃいやじゃよ 紙すき仕事
朝間疾うからサ 水仕事

腹がせくせく 頭がはしる
腹にねんね子がサ 宿るやら

隠しゃしませぬ 三月(みつき)でござる
水の上でもサ 寝とござる

十月十日(とつきとうか)も苦労はしたが
生まれたこの子は 主さんによく似て
トコねえちゃん 愛らしや
トコ ホントニ ホントニ

(収録日 1962年(昭和37)9月21日)

解説

 これは1962年(昭和37年)に教えていただいた労作歌の一つである。
 ここ吉賀町は江戸時代、津和野藩に属していた。藩では農民に紙すきを奨励しており、江戸表でも「津和野半紙」として知られていた。もっとも昔から一般的に石見地方一帯によい紙は作れたようで、それらを一括して石見半紙の名前が聞かれた。隣の浜田藩でも紙すきは盛んだった。今も三隅町で作られる三隅半紙などは、この伝統を継ぐものである。
 さて、吉賀町では紙の原料のコウゾを栽培していた。最近まで農家の作業場にコウゾを蒸した後、皮をはぐためのコウゾへぎが残っていた。
 ところで、コウゾを蒸した後、更に水にさらし、それを簾で何度も漉しながら紙にしていく作業は、厳寒期のしかも朝早く行われるものである。その労働の辛さをうたったのが、ここに紹介した歌である。
 うたい手である大田さんの話では、当地において、一般の家庭で実際に紙すきが行われていたのは、明治改元後もまだまだ続けられ、第二次大戦中まで見られたが、その後廃れてたという。また、この紙すき歌については1902年(明治35年)くらいまでうたわれていたようだったとのことである。
 詞章を見ると、まず朝早くからの紙すき仕事の辛さを述べて、その理由を妊娠による体の不調としている。そして後半では赤ん坊の誕生の喜びと、その子のかわいらしさを愛でているから、必ずしも紙すき作業をストレートに否定してはいない。けれどもやはり、寒い冬の早朝からの作業は、決して歓迎されるはずもないのである。
 労作歌というものは、うたうことでリズムがとれて、作業がはかどるという効能がある。田植えには田植え歌、木挽きには木挽き歌、臼挽きには臼挽き歌があるように、紙すきに紙すき歌があったのではあるが、こうして詞章から見るだけでも、その作業には大変な辛さを伴っていたことが分かる。