三が三なら(大黒歌・松江市島根町瀬崎)

語り(歌い)手・伝承者:伊達チカさん・1963年(昭和38年)当時・83歳

ハーイヤー
それではノー
タエナー
三がナー 三なら
三三のナー 九つ
算盤ナーエーでの めぁしナー
ごさんにょうだ  まだアエナサー
エートナー ソラェヤー

アーエヤー
それではノータエナー
こちのナお家の 床前を眺むれば
白いナー 鼠が 小判をナー くわえて
あちらへもナー
ちょろちょろと
こちらへもナー
ちょろちょろとナー
真ん中どころで落といたら
この家はナー ご繁昌だい
まだあえらしいぉとえー
トナー アイアヤー

(収録日 1963年(昭和38)8月13日)

解説

 録音では詞章が聞き取れないところが多いが、この大黒歌は今日では聞けなくなった貴重なものである。元来、この歌は、新年になるとどこともなく現れて各家々を回り、めでたい詞章の歌をうたって去って行った遊芸人の歌なのである。
 島根県教育委員会が一九八六年(昭和六十一年)に出した『島根の民謡』の勝部正郊氏の文章を参考に抜き書きしておこう。
 …上から下まで黒一式、頭は黒の御高祖頭巾、黒のコートに下は長着と紺の脚絆、白足袋に爪ご草履、手甲をつけた女性で、これが大正末年から昭和初年のころの大黒人であった。後にはコートがマントに変わってきたが、更に大正のころまでは蓑笠に頭巾の覆面であった。目だけを出して顔は覆い隠す。この頭巾をウエミンの頭巾といった。いかなる大家の門を潜っても、頭巾はもちろん蓑笠は着けたままの天下御免の服装であった。もとは女性が扮した大黒であったらしく、いわば神人であったようである。
 大黒人は決して出自を語らず、歌以外には口をきかなかった。迎える家でも強いて尋ねることもせず、寒さに堪えて正座を続け丁重に儀礼を尽くした。福神に対する儀礼であった。
 採り物は長さ十二~三センチ、幅約二~三センチほどの真竹で作った拍子木、これで拍子を採りながら二人一組で掛け合いに歌を歌う。門に立って雪を払い土間に入るやいなや歌い始める。御免をこう言葉もない。家内では襖障子を奥まで開け、家族は上り端の間に正座して祝福を受けるのが習わしであった。
 また、歌は序の段、本歌の段、納めの段の三つの部分からなり、鳥取県西部を回る伯耆系、出雲地方を回る出雲系、石見地方を回る備後系などがあった。
 紹介したのは序の段に属しているようである。