さまと別れて(田植え歌・鹿足郡吉賀町下須)

語り(歌い)手・伝承者:川本一三さん・1911(明治44年生)

さまと別れて 松原行けば
松の露やら 涙やら
松の露でも 涙でもないが
思い合わせの 霧が降る
合わせの 思い
思い合わせの 霧が降る

(収録日 1964年(昭和39)2月21日)

解説

 1964年(昭和39年)に川本さんのお宅で聞かせていただいた田植え歌の一つがこれであった。「合わせの、思い」以下は返しと称する繰り返しの部分であり、ここは都合によってうたったり省略されたりと、実際の場面では自在に扱われている。また、もともと田植え歌は決められた順番でうたわれるものと、いつうたってもよい自由な歌と二通りの種類が認められるが、この歌はいつうたってもよい部類に属している。
 それはともかく、田植えという作業をしながらうたわれていた歌の中に、このように優れた叙情性を秘めた詞章も存在していた。
哀愁をたたえ、しかもどことなく品のある美しさに満ちあふれた歌であることか。内容を眺めてみれば次のように解釈されそうである。
 主人公は乙女である。千秋の思いで恋人を訪ね、人目をはばかって、やっと逢瀬を過ごしたのも束の間、もう別れる時間が来てしまった。つもる話をあれこれとしあったものの、周りの人々は、この二人を心からは祝福してくれないのか、互いに何かと気にかかる話題は多い。心を後に残して恋人と別れ、松並木を家路にと急ぐ乙女の胸には、恋のたとえようもない切なさと不安感が、次々とわき上がってくる…。そしてふと気がついてみると、いつの間にかあたり一面に深い霧が立ちこめつつあるではないか。泣きたいような乙女の気持ちを、まるで象徴しているかのように、静かにゆっくりと霧は降りてくるのであった。
 こうわたしは解釈したが、いかがであろうか。
 「涙でもないが」のところが8音節となり字余りではあるが、基本形を7775とする近世民謡調であるこの歌は、わたしの好む歌の一つである。ただ、ここでは田植え歌として紹介したが、同じ詞章でも他の地区で、臼挽き歌として聞かされたこともある。
 このように7775調の歌は、いろいろな作業歌として、自在にうたわれていた。
 それにしてもだれが作り出したのかも分からない伝承歌ではあるが、しみじみとした気分にさせられる内容ではある。おそらくこの歌は既に江戸時代には存在していたのではないかと思われる。
 今回はそのような歌の中で、特にラブソングとしても気品あふれる歌として、この歌を選んでみた。