打ち出の小槌
語り(歌い)手・伝承者:鳥取県智頭町 大原 寿美子さん(明治40年生)
昔あるときにねえ、暮らしが難儀なおじいさんとおばあさんとあったそうな。
そうしたところが、毎日、暮らしが難儀なので、山へ木をこりに行って、その木をこって持ってもどり、そして、正月が来れば薪もいるものだから、毎日、木を負うて、おじいさんは売って回っていたそうな。そうしては米を買ってきたりして、日に日にがどうにか立っていたそうな。けれども、その木がいつも売れるというわけにはいかないから、売れ残った木を智頭の備前橋の上のようなところから、
「竜宮の乙姫さまにへんぜましょう(差し上げましょう)」と言って、ぼーっと投げ入れたそうな。そうすると木はぐるぐると回りながら流れ、水に潜ったりしながら海へ出るようなことで、そういうふうなことで毎日過ぎていったそうな。
そうしたところが、ある日のこと。おじいさんが帰ろうと思ってふっと見たら、
「ちょっと待って」と言う者がいる。それから待っていたところが、
「うら(わたし)はなあ、竜宮の乙姫さんの使いで来たもんじゃが、毎日、竜宮では薪がのうて困っておるに、おまえが薪を毎日送ってごされてたいへんに助かっとる。それで乙姫さんが『これをやれ』言ってごされた」と言って、打ち出の小槌をくれたそうな。
「この打ち出の小槌はなあ、何がほしい言うても、これ打ったら何でも出てくるで。そいでも限度があるじゃけえ、三つしか打たれんじゃで」と言って、使いはおじいさんに打ち出の小槌を渡して消えていったそうな。
おじいさんは、そういうことから打ち出の小槌をもらって帰りよったところが、ワラジが破けて履けなくなったから、ワラジをもらおうかと思い、どんなもんかと思いながらも、
「ワラジ一足……」と言って、ちょっと小槌を打ったら、まーあ、よいワラジがひょっととんで出たそうな。おじいさんは、
-まあ、ほんに本当にたいしたもんじゃ-と思って、そのワラジを履いてもどっていたところが、
-三つ、言われたけえ、もう二つ願われるじゃなあ-と思いながら自分の家へ帰ったそうな。
そうして帰ったのはよかったものの、毎日、薪をこりに行くのだからよい鉈がほしくなり、
-ほんに、もう一つ振ってみよか-と思い、
「鉈、一つ」と言って、ぽーっと振ったところが、りっぱな金の鉈がひょいっと出てきたそうな。
-はーあ、まあ、たいしたもんじゃ-と思って、おじいさんは金の鉈をもらっておった。そうしたら、
「もう一つじゃが、ばあさ、どぎゃあしようなあ」と言ったところ、おばあさんが、
「おじいさん、食べる米がねえじゃがなあ」と言ったので、
「ほんなら米をもらおうか。これから米を出そうかなあ」と言って、
「米、一斗八升。ばばあ」と言ったところが、なんと美しいおばあさんがぴょこんととんで出てきたそうな。
-まあ、二人が食うにさえ困っとるに、こぎゃあなきれいなおばあさんでもとんで出てきたが、困ったこっちゃなあ- そうおじいさんが思っていたら、美しいおばあさんがちょこんと座ったまま、鼻の穴からぽろりぽろり米が出だしたそうな。
まあそれから二人が不思議に思って見ていたところが、その美しいおばあさんが、鼻の穴からもこちからもこっちからもぽろりぽろりぽろりぽろりと米を出して、とうどう一斗八升の米がそこの座敷に積まれたそうな。
一斗八升の米が群れになって座敷いっぱいになったと思ったら、そのきれいなおばあさんはそれきり米の中に溶けてしまい、いなくなってしまったそうな。そのおばあさんもまたみんな米だったのだそうな。
それというのも、おじいさんが『ばばあ、一斗八升』と言ったから、一斗八升の米がおばあさんから出たのだそうな。
そればっちり。
解説
昭和62年8月23日に大原さんのお宅で語っていただいた。これはいたってのどかな話である。打ち出の小槌といえば、わたしたちはすぐに「一寸法師」の話を思い出す。鬼が忘れた打ち出の小槌で彼は一人前のりっぱな男に変身するが、そのような打ち出の小槌は、昔話の世界では他の話の中にもこのようにちゃんと用意されている。
ところで、この大原さんの話は、全国的に見るとかなり珍しいようで、関敬吾博士の『日本昔話大成』にもその戸籍は見つからない。基本的には爺が送られる小槌は竜宮界からの贈り物である。それならば竜宮童子とか浦島太郎、黄金の斧などのある「異境」の項目か、小槌の霊力を中心においた場合、聴耳とか宝下駄とか塩吹臼あたりが所属する「呪宝譚」、それとも爺の幸福を主題として考えれば、炭焼き長者とか藁しべ長者、または酒泉あたりにその戸籍があってよさそうなものであるが、それらのいずれにも該当しない。しかし、話の筋を追うと、まったく日本昔話の本筋に添ったスタイルであることは間違いない。
まず第一に主人公が貧乏であり、善意に満ちた人物である。これが典型的な昔話の主人公としての資格を有することは、説明するまでもない。そして彼は寡欲で、せっかく三つの願いをかなえる呪宝である打ち出の小槌を得ながら、望むものといえば仕事の必需品であるワラジと鉈、それに日常生活に欠かせない米の一斗八升だけである。決して家とか蔵とか大金を得ようと試みるようなことをしない。
第二には竜宮とか乙姫さん、打ち出の小槌という舞台装置そのものが、伝統的な日本の昔話になじみ深いものがそろっている点である。
最後に主人公の行動であるが、売れ残った薪を竜宮の乙姫さんに進呈しようと、橋の上から川に向かって投げ入れている。これは、古いわが国の風習をとどめた行為である。
わたしは、以前、島根県奥出雲町大呂の安部イトさん(明治27年生)から次の風習をうかがっている。少し腐りかけた食物や、母親の乳が多く出過ぎたりした場合、そのままそこいらに捨てたりなどはせず、小川などへ持って行き、「竜宮さん、竜宮さんに納めます」などと唱えて流すものとされていたというのである。このことは、かつてはわが国の至るところに存在していた。それがこのような内容の話を生んだ底流にあったのであろう。
これはどういうことだろうか。小川は大川に続き、その先は海に流れて行く。そしてそれらの贈り物は海のはるか彼方にあるという竜宮界に到達するというしだいである。
竜宮界、それは浦島太郎の出かけたパラダイスであるが、わが国の民間信仰でいえば、「常世(とこよ)」という理想郷を意味している。もちろん神の国である。したがって、この話では主人公である欲のないおじいさんが神の国へ届けた薪の贈り物に対して、その心がけを愛(め)でた乙姫が、彼に褒美として打ち出の小槌を与える図式になっている。
こうして考察を進めて行くと、この話は昔話の戸籍には掲載されてないとはいうものの、間違いなく日本昔話の伝統の道筋を一歩も踏み外すことなく展開されていることがお分かりいただけると思う。