カタツムリの息子

語り(歌い)手・伝承者:島根県吉賀町 小野寺 賀智さん(明治23年生)

 あるところにおじいさんとおばあさんが、子どもがないといって、毎日毎日心配しておりました。そして、神さまにも仏さまにも子どもが授かるよう頼んでいました。
  おばあさんがお茶を摘んでいましたら、
「ばあさ、ばあさ、子んなりましょう。この茶の木の中におります」という声が聞こえてきましたので、おばあさんが見ますと、かわいいカタツムリがおりました。そして、
「わたしが子になるんでございます」と言いましたから、おばあさんは手の腹にそのカタツムリを乗せて家へ帰り、おじいさんの帰って来るのを待っておりました。
「おじいさん、こんに、今日茶畑で子どもを拾うてきた」
「はあ-、そうか、そりゃ結構なこと。まあかわいい。こりゃええ子じゃ」とおじいさんも喜んで、手の腹へ乗せて、二人であちらへ取りこちらへ取り喜んでおりましたそうな。
  明くる日。おじいさんが酒屋へ薪(たきぎ)を持って行こうと馬に積んでいましたら、
「おじいさん。わたしが持って行く」
「おまえが持って行くのは、とても手に合わんから」
「いや、苞(すぼ)の中にわたしを入れて、それを馬の鞍(くら)につけてつかあされえ。そしたら持って行くから」。そこでそうしたら、「たせへせ、たせへせ………」とカタツムリの子は鞍のところから言って、馬を使って、酒屋の門(かど)へ行きました。
「じいの方から木を持ってまいりました」
「どこにおるか」
「こんに、苞の中におります」。苞を解いて見れば、かわいいカタツムリなので、
「ま、こりゃええ子を求めたもんじゃ」。家内中がみんな出てきて、あっちへ取り、こっちへ取りします。そこにはきれいなお嬢さんが三人もおられて、
「まあ、かわいい」、「かわいい」と言って、お金を苞の中へ入れ、カタツムリも入れてやりましたら、カタツムリは、わが家へ帰って行きました。
「こんに帰りました」と言うのでおじいさんやおばあさんが出して見ると、お金も入れてあります。
  ところが、カタツムリはご飯も食べずに奥の間に入って布団をかぶって寝てしまいましたので、
「どうしておまえは起きてご飯を食べんか」と言っても、カタツムリは何とも言いません。
  そこでおじいさんとおばあさんは隣のおばあさんを呼んで来ました。
「おばあさん、うちの子はご飯も食べんこうに寝てしもうたが、どうか様子を聞いてみてくれんさい」。それから聞きますと、
「酒屋に娘が三人おれたが、どの娘さんか嫁さんにほしい」。
「それは及ばんことだけえ」。そう言ってもカタツムリは聞きません。
「まあ、だめでもどうでも言うてみてくれえ」。そこで、しかたなく隣のおばあさんが、酒屋へ行って頼みますと、今度は酒屋の親方が布団をかぶって寝てしまいました。そこで一番上のお姉さんが、
「お父さま。起きてご飯をあがれ。なしてご飯をあがらんか」と言いましたら、
「おまえがカタツムリの方(かた)へ嫁に行ってくれれば、起きて食べる」
「いやいや、わたしゃ、乞食(ほいとう)しても、嫁によう行きません」。しかたがないので二番目の娘に言うたところが、
「わたしゃ、紙袋(かんぶくろ)を下げて歩いても、カタツムリのかたへは嫁には行きません」
「それではどうしようがないから、わしゃ起きて、飯(まま)ぁ食べん」。
  今度は一番小さい娘が来たので言いますと、
「そりゃ、あなたのおっしゃることなら、カタツムリの方(かた)へでもどこへでも行きますから、起きてご飯を食べてください」
  そこで、お父さんは起きてご飯を食べて、二人の大きい娘は追い出して、一番下の娘にはりっぱな支度をして嫁にやりました。
  ある天気のよい日にカタツムリは、
「今日は海辺へ行こう」というので娘は手の腹へカタツムリを乗せて行ったところが、カタツムリは、
「この石の上へわしを置いて、そいでこの石でわしをたたきめいでくれえ。そいで針に糸を通して海へ放ってくれい」
「わしがそねいなことをしたら、あんたが死にんさるけえ、いやだ」
「いや、死にゃせんけえ。つくつくっと下からこう引いたときに、ぱっと引き上げてくれたらすぐ上がるから」。
  カタツムリの言うようにしたら、カタツムリはりっぱな男になって打ち出の小槌を下げて上がってきて、家へ帰ってから、その小槌を振って、「米出えや」と言えば米が出るし、「錢出え」と言えば錢が出る。とうとうたいへんな金持ちになったそうです。
  それに引き替え、二人の大きな姉の方は、親の言うことを聞かずに、追い出しにあったため、助けてもらわなければならないというので、お父さんのところへ行っても許してもらえませんし、妹の嫁に行った先へ行っても、お父さんの言い渡しで・たとえあれらが来ても、親にそむくような者は、絶対に寄せつけてはならぬ・と言われているので、とうとう二人の姉はずっと乞食をして歩いたそうです。
  ですから、親の言うことはよく聞かねばなりませんということです。

解説

 昭和40年ごろこの話を伺った。筆者が鹿足郡吉賀町柿木村で中学校教師をしていた時代のことである。関敬吾博士の分類ではこの話は「本格昔話」の「誕生」の項目の中に「田螺息子]として登録されている。
  さて、語り手の小野寺賀智さんについて述べておく。彼女は明治23年2月28日、同町注連川(しめがわ)で生まれ、昭和55年に90歳の高齢で亡くなっておられる。彼女はいつも明朗で魅力的な方だった。ご自分のことを「カブの婆」と称して、知り合った方々に民話などについての便りをこまめに書いておられた。
  筆者は昭和37年から5年間、当地にいたが、よくお宅へお邪魔しては民話や民謡を伺ったものである。ここに紹介した話もそのような一つである。彼女はだれにも親切だった。民俗学会でも高名だった筑波大学教授、宮田登氏(故人)とも昭和35年夏の西石見民俗調査で知り合い、終生文通を続けるような親しさだった。喜寿の祝いだったか宮田氏は紫の頭巾と座布団をプレゼントされ、うれしそうに見せておられた姿が今も脳裏に浮かぶ。
  また、昭和50年ごろから偶然訪れた國學院大学の民話研究グループの学生たちともすっかり親しくなられたが、このように彼女の人柄に魅せられた学生たちは、東京から訪問を繰り返し、117話にのぼる民話を聞き出した。そのようにして横浜市に「『小野寺賀智媼の昔話』を刊行する会」という事務局を置いた彼らは、昭和56年3月に『小野寺賀智媼の昔話』というB5判112ペ-ジなる単行本を出版した。小野寺さんのすばらしさを示すエピソ-ドではなかろうか。