七夕の由来
語り(歌い)手・伝承者:松江市美保関町万原 梅木 芳子さん(明治37年生)
とんとん昔があったげな。
炭焼きおやじさんが炭を焼いていたら、向こうをきれいなお姫さんが通りかかられたげな。それで、
-どうされるのだろうか-とおやじさんが見ていたら、お姫さんは美しい天(あま)の羽衣というものを堤の側の木の枝に引っかけておいて、水浴びをされるのだげな。それで炭焼きおやじさんは出来心で、その羽衣がほしくなり、羽衣を盗んで家へ帰ったげな。
お姫さんは水浴びが終わって羽衣を着ようと思われたけれどないので、
-山の向こうに煙が出ていたが、あの炭焼きおやじの仕業かな-と思って、家へ訪ねて行かれたげな。
「ごめんくださいまし、暮れ暮れになっておじゃまに来ましたが、今日、水浴びに行っちょったら、天の羽衣を失ってしまって、おまえさんの目にとまって拾ってごさっしゃったらぁかと思って聞きに来ましたが」
「いや、そげなもんなんか、わしの用のないもんだ。拾いもせんが見てもおらん」
「ないて言われぇもんならしかたがないが、ここには奥さんもないすこだけん、わしをここの嫁にしてごさっしゃらんか」
「う-ん、そげかね。ここは貧乏でおまえさんみたいなきれいな人に、嬶(かか)になってごさっしゃいなんて言ったって、無理な話だと思うが」
「いんや、どげな貧乏なとこでもいいけん、どげぞおまえさんの嫁にしてごさっしゃい」
「そうが承知ならなってごさっしゃい」。
お姫さんは嫁さんにしてもらったげな。
それから、炭焼きおやじさんは毎日毎日喜んで炭焼きに行っていたげな。月日の経つのは早いもので、三年も経つと赤ちゃんが生まれたのでテッパチと名をつけたげな。
テッパチがだいぶん大きくなって羽衣を見つけたので、おやじさんが炭焼きに行った後、
「おかか、なんてて、きれいなもんがあった。出いてあぎょうか」
「うん、そげなら早やこと見しぇてごしぇ」
見ると例の羽衣だったげな。
「どこにこうが隠いてあった?」
「あのね、自在鈎(じざいかぎ)の中にあったと思わっしゃい」
「ふ-ん、おかかは元々天の人間だども、こうがなて天へ上があことができで困っちょっただ。これでおまえと一緒に天に上があだけん」と晩におやじさんの帰るのを待っていたげな。そして帰って来たら、
「今日、テッパチがおまえさんの留守に預かってごさっしゃったもんを出いてごいたので、明日は天へ上がらと思うけん」
「ま、よもよも自分が隠いちょっただけん、しかたがない」。
「ほんなら、子どもも天へ連ぇて帰ええことだし、おまえさんも来たかったら、門(かど)へ朴(ほう)の木を植えておいてあげえけん、毎朝、上酒(じょうざけ)を一斗わて、七斗ついでごさっしゃい。そんならこの朴の木が天に届くけん、この木に登って天へ上がらっしゃいよ」
そう言い残すとお姫さんは、次の朝、テッパチを小脇に抱え、天の羽衣を身体へかけて、ひらりひらりと彼方の空へ上がって見えなくなられたげな。
おやじは炭焼きなどは手につかず、毎朝起きがけに、上酒をその朴の木の根元へついで六日まで続けたものの、早く天へ上がりたくなって、
「まあええわ、一斗つがんてて、天へ届いちょうだらぞ」と、朴の木に登りだしたげな。しかし、一斗足らなかったために朴の木は天に届いていなかったげな。
-ああ、ほんに。嬶はテッパチを連れて上がっちょうけん、あいつを呼んでみちゃらか-と思って、
「テッパチやあ、テッパチやあ」と呼んだら、テッパチがその声を聞きつけて、
「お父さんだ。早こと呼んであげんならん」と、天から長い布をぶらさげてあげて、
「こうにさばらっしゃいよ」と引き上げてあげたげな。するとお姫さんも、
「ああ、おまえさん、よう上がらっしゃった。お酒が足らで天へ届かだったに。まあ、ここで暮らさっしゃあには舅(しゅうと)さんがどげな難しいことを言わっしゃっても『やだ』てえことさえ言わっしゃらな、ここにおられえし、『もういやだ』と言わっしゃったら、そのまま下へ降りてもらわにゃいけませんがねえ」と言われたら、おやじさんも、
「ああ、ああ、それぐらいなことなら聞くけん」と約束して、その夜はすぎたげな。
それから朝、舅さんに向かって、
「あの、今日は何しましょうかね」
「向こうに粟畑がああけん、この八斗の種を八反のその畑に蒔(ま)いてもどらっしゃい」
「はいはい」。
おやじはそこへ行って蒔きかけたけれど、二畝三畝蒔いたら、もう昼になったげな。しかたがないと思っていたら、後からお姫さんが弁当を持ってきて、
「お父っつぁん、来ましたで、おまえさん、この弁当食べてごさっしゃい。そげすうとわしがテゴしちょいて(手伝って)あげえけん」と言う。おやじさんが弁当を食べて昼休みしている間に、神さんであるお姫さんは、すぐ八斗の粟を八反の畑に蒔いて帰って行ったげな。
それから、また次の日、
「今日は何しましょうか」
「今日はのう、昨日蒔かした種を一粒残らず八斗の枡(ます)に拾ってもどうだでや」
「はいはい」。
昼になると、またお姫さんが弁当を持って来て、おやじさんが食べているうちに、お姫さんがカンチクヨウチョウの笛という笛を取り出して吹かれたら、何千羽という鳥がどこからともなく飛んで来て、八斗の粟の種をちょいちょく、ちょいちょく、ちょいちょく、ちょいちょくと拾って取りまとめたげな。それでおやじさんはそれを袋に入れて負って帰ったげな。
次の日。
「今日はのう、家の下の川を渡った向こうに瓜や西瓜(すいか)が植えてああけん、その西瓜や瓜の草を取ってごっさい」
「はいはい」
おやじさんが行ってみたら、とてもたくさんの瓜や西瓜が成っていたげな。お姫さんはおやじさんの出るときに、
「なんぼ瓜や西瓜が成っちょっても、一つだし食うなよ」と言っておかれたのだけれども、あまりりっぱに熟れているので、
-一つぐらいむしって食っても分かあせんわい-と思って、味瓜を一つ、爪でプツンとむしって食べたら、さあ、食べるか食べないうちに大水になってしまい、後からお姫さんが弁当を持って来られたものの、川が渡られなくなったので、お姫さんは、
「おまえさんが瓜食わっしゃったけん、もう逢われんがね、しかたがない。月の七日、
七日に逢わやね」と言ったら、
「何だああ、川の音がして聞こえんがなあ。七月七日に逢わぞやあ」と、おやじさんが答えたげな。それで七夕さんは一年に一ぺん、七月七日にしか逢うことができぬようになったのだげな。
とんとん、そうでこっぽち。
解説
昭和45年7月にうかがった 昔話の名前では「天人女房」として知られている。
この物語は有名で、室町時代前期に活躍した世阿彌(1363~1443)の作品である謡曲「羽衣」としても古くから知られており、日本人にとって懐かしい話である。ただ、この謡曲の方は昔話の前半部分が独立した形で作品化されている。簡単に述べておくと、三保の松原で漁夫白龍が天人の羽衣を取るが、天人の嘆きを見てやがてその衣を返す。天人は喜んで舞を舞い天に上って行くのである。したがって、二人の結婚云々以下の物語はない。
全国各地には類話がいろいろと見られるが、ここでは指摘するだけにとどめておく。