踊る骸骨

語り(歌い)手・伝承者:鳥取県八頭郡智頭町波多 大原 寿美子さん(明治40年生)

 昔、あったときになあ、下(しも)の七兵衛と上(かみ)の七兵衛と二人の七兵衛があってなあ。たいへんに仲良しで、田舎におってもたいしたもうけはないしするので、
「まあ、ちぃっと町の方へ出かせぎじゃ。もうけてこうや」と言って二人が出たそうな。
 そうしたら、上の七兵衛は、出るときから、自分が食べられさえすりゃ遊んでおって、そうして過ごしていたし、下の七兵衛は一生懸命働いて、そして月日が三年たって、
「もうまあ、三年もたったじゃけえ帰ろうやな。仲良く二人が出たじゃけえ、二人いっしょにいなにゃいけんけえ」と下の七兵衛が上の七兵衛に言ったらなあ、上の七兵衛は、
「三年たったけど銭は一銭もないし、それから、また着ていぬる服も着物もない」と言う。
「おまえを一人置いときゃあいけんけえなあ、そいじゃけえ、ほんなら連れのうていのう。どげえどうらがするけえ」と下の七兵衛は言ったそうな。
 そして呉服屋へ行っていくらばかりの着物を買うなどして着替えはいっさい買ってやって、そのようにして連れだって帰ってきたそうな。
「やれやれ、もどった。もどった。もう村が見えるぞ」と言って峠の上から家の見えるようなとこになってから、ひょっと上の七兵衛が謀反(むほん)を起こしてねえ、
「まあ、これじゃあ、うちへいねんけえ、七兵衛をここで殺いたら、七兵衛のお金も土産も何も、うら、持っていねるけえ」と思って、それから下の七兵衛を後ろから、ばっさり斬って殺して、そうして下の七兵衛の土産からお金から全部持ってもどったそうな。そうしたら下の七兵衛のお母さんが、
「同じように出たじゃが、うちのお父ちゃんはどげなことじゃろうなあ」と言えば、
「さあ、いのう、言うたけど、もうちいともうけて、もうちいと後からいぬるけえ、と言うたけえ、大方そのうちもどろうかも知れんで」と言ったそうな。
 それで仕方がないので、その母さんも待っておられたけれど、とうとう下の七兵衛はもどって来ないそうな。
 それから上の七兵衛は、下の七兵衛がやっと銭をもうけたのをみな取っているし、土産もあるししてほちゃほちゃ言ったけれども、そのようにお金を盗ってみたところが、ちっとも性根は変わりはしないし、あるお金は、そのうち使ってしまって、また三年たって、そうして、またそこを山越しなければならなくなったので、下の七兵衛を殺したそのウネを越していたところが、
「こら、上の七兵衛、上の七兵衛、ちょいと待てや」と言って、上の七兵衛の裾を押さえる者がある。それが下の七兵衛の声だからびっくりしていると、そこに下の七兵衛の骸骨が残っていたそうな。そうしたらその骸骨が、
「ほんに忘れたか、三年前、ここでおめえがわしを殺えて、うらの荷物から金からみな持っていんで、だけどやっぱり性根は治らさらんか。あの、うらが三年かかってやっともうけた銭ぃみな使うたかい」と言う。
「ふ-ん」
「ま、そねいなろう。そら性根は変わらん、変わらん」と言う。
「何言うても、ほんに断わりのしようもない。こらえてごしぇえ」と上の七兵衛は言う。
「こらえてごしぇるもこらえてごせんもありゃあせん。うらの銭ぃみな使うただけん、どがあしようもないがなあ。それじゃあ何じゃがな、三年後、おまえ、おまえと会おう会おうと思うて、こっからほんに毎日待っとるけど、三年たたにゃ会えなんだ。何じゃ、そりゃまあ、また、銭がなけにゃあ、一もうけしてこうや。ほんならうらと二人で行こう」と言うと、
「ええ」と言ったそうな。
「おめえはよう歌をうたうだけえ、歌をうたえ。うらは踊るけえ」と下の七兵衛が言うものだから、
「そうか。そんなら、まあ、そがしょう」と言って。それから、二人が出たところが、「骸骨の踊り」「骸骨の踊り」と言いながら、ずっと町をあちこち回っていると、珍しいものだから、本当に、ここもあちらも、うちもというように、とっても受けに受けるものだから、上の七兵衛はとても喜んで、そうして、自分はいろいろな歌をうたって、骸骨がずっとはね回って踊るしして、たくさんの金をもうけたそうな。
 そうしていたら、それが殿さんの耳へ入って、それで殿さんが、
「骸骨の踊りいうようなもんは珍しいもんじゃ。ほんなら、まあ、見せてもらおうかい」と言われたそうな。
 それから二人は大きなお庭に呼ばれて、そのようにしてそれから上の七兵衛が歌をうたいだしたそうな。そして骸骨に、
「さあ、踊れ」と言って踊らせるけれど、まあそれまであれだけよく踊っていた骸骨がちっとも踊らぬことになってしまったそうな。上の七兵衛はいろいろと知っている歌を全部出してみるけれど、びくとも動かないので、
「こら、何ちゅうこっちゃろう」と思って、
「なして踊らんじゃあ」と言って、びっしりたたいたら、骸骨なのでごとごとっと砕けてしまい、そうしてその骸骨は殿さんの前へ行って、座って、
「殿さん、ほんに殿さんと会いとうて会いとうてこたえなんだ。これまで踊ったのも殿さんに会いとうて、こがあやって回りよったとこじゃ」と言ったそうな。そうして、
「この上の七兵衛は三年前、こういうわけじゃったじゃ。二人が出稼ぎい出て、こういうわけで峠から家が見え出いたところで、ウネのところでわしを殺いて、このようなことをしてきた。まあまあ、これで仇討ちができる。今日の日が来たじゃ」と一部始終をすっかりみな話してしまったら、殿さんが、
「上の七兵衛はたいへんに、そら悪者(わるもん)じゃ」と言われ、それから上の七兵衛を縛り上げて全部白状さしたところが、案のじょう、骸骨が言う通り同じことだったそうな。
 それから、上の七兵衛ははりつけにあったそうな。
「これを待って三年間、ほんに思いつめて、待ち続けとったじゃ」と言って下の七兵衛は仇討ちをしたのだそうな。
 そればっちり。

解説

 昭和54年10月にうかがった。この「踊る骸骨」の話は、各地に伝えられてはいるものの、わたしとしては他ではまだうかがったことのない、唯一のものである。それだけにこの話を聞かされたときには、驚くやらうれしいやらだった。関敬吾博士の『日本昔話大成』から、その戸籍を眺めると、本格昔話の「十、継子譚」の中の「唄い骸骨」として登録されている。これまで収録された地方について『日本昔話大成』を借りて北から挙げておくと、岩手、宮城、福島、新潟、広島、福岡、熊本、鹿児島のわずか八県しかない。したがって山陰でこの話を直接聞いたのはわたしだけのようである。
 少し歴史的に遡って眺めてみると、寛政6年(1794年)に人見蕉雨の書いた『黒甜瑣語』の「髑髏(されこうべ)の謡」として出ているのがこれに近い。略記すれば、森山大蔵という侍が二戸の阪本へ行こうと山道にさしかかると髑髏が「ほに出る枯尾花訪ひ来しなうき寝の夢さむればみねの松風」と繰り返してうたっていた。…森山がこのことを主人に話すと、主人をはじめみなに笑われる。森山は「命に代えても偽りではない」と請け合い、髑髏を連れてきて謡わせようとするが髑髏は謡わない。そこで森山は約束の通り頭を刎ねられる。すると髑髏は笑いだし「今こそ我が願い叶い多年の恨みも晴れた。この森山は一人の家来を無実の罪に陥れ、手討ちにしたことがあった。その祟りがこの髑髏に残っていたのだ」と話した、というのである。また、近隣諸国に目を転じると、タイとかアメリカインデイアンなどに類話が認められるようである。