初夢長者

語り(歌い)手・伝承者:仁多郡奥出雲町大呂 安部イトさん・明治27年生

 とんとん昔があったげな。布部の飯島という大きな家には、手代や番頭さんがたくさんおったげな。
 さて、正月一日の晩には、よい夢を見れば一年中よいことがあるといいます。
一人の手代がとてもよい夢を見たそうで、
「ええ夢見たわ」と言ったら、友だちなんかが、
「言いて聞かしぇ」
「言いて聞かしぇ」と言いますが、言って聞かせると縁起が悪くなるから、と黙っていました。とうとうそのために手代は、飯島の家を追い出されてしまいました。
 手代はしかたなく、大阪の方へでも行こうかと考えて、どんどん歩いていたら、何だか男がおって、賽(さい)を投げては、
「ああ、大阪が見える。京都が見える。東京が見える」と喜んでいるげな。その男は、
「話を言うて聞かせりゃあ、この大阪や京都の方が見える賽をやる」と言ったので、手代はそこではその夢の話をして、その賽をもらったげな。しかし、いくら投げても、大阪や京都が見えないので、
「見えんがなあ」と言ったら、男は、
「いや、まんだおまえが慣れんけえだ。もっとやっぱぁ投げちょりゃ、また見えぇやになる」と答えたげな。
 手代がその男と別れて、自分で「大阪が見える。京都が見える」と言いながらまた歩いて行ったら、ある者が来て、
「そげなもんなら、おらに譲ってごしぇ。その代わり、この『生き棒死に棒』をやる。これは死んかけたもんを撫でえとマメになあ(元気になる)。それにこの棒で尻をポンとたたくと、どこへでも行きたいとこへ行けえけん、この棒と替えっこしょうこい」と言うので、
「うん、ほんなら、替えっこしちゃあわ」と手代は替えたそうです。賽を受け取った男が、
「京が見える。大阪が見える………」といくら言っても見えないので、
「おまえ、見えんがな」と言いますと、
「いや、慣れりゃあ、また見えぇやになぁけに」と答えておいて、手代は、京都へでも行ってみようと思い、
「京都へ行きたいなあ」とその棒で自分の尻をたたいたら、京都までは行けなかったものの、途中まで行ったげな。その道中で馬が病気していて人々が大勢で、その馬を介抱してしているげなが、
「とてもこの馬はいけん」と言っているので、
「そんなら、おらがその馬をちょっこり診てあげえわ」と手代が、替えた棒を使って、一生懸命でその馬の背中や腹なんかを撫でていたら、馬が元気になって、
「ヒヒヒヒ-ン」と鳴いたので、
「やあ、こりゃ、まいこと起きたわい」とみんなが喜んだげな。
 手代は、今度は「大阪へ行きたい」と棒で尻をポンポンとたたいたら、大阪へふ-っと行ったそうな。
 ところで、そのころ大阪には「朝日長者」と「夕日長者」という長者が二軒あったげな。その夕日長者のお嬢さんが病気で、医者だ薬だといろいろ手を尽くしてもとても助かりそうにないげな。そのことを手代が聞いて、
「ちょっこぉ、診しぇてもらわれへんだぁか」と長者の家へ出かけて行って、屏風を立てて人からは見られないようにして、その棒でお嬢さんを撫でていたら、そのうちお嬢さんが「ハ-ッ」と息をしだして元気になられたげな。
 そうしていたら、また、隣の朝日長者のお嬢さんも病気になってしまい、手代はまたそこへも御典役として迎えられたので、また棒で撫でたら、そのお嬢さんも元気になられたげな。それで大変に喜ばれて、両方の長者から、
「娘の婿になってもらわないといけない」と言われたものの、
「そげん、二軒の婿にならぁててなれんが」と答えたけれども、また両方で相談し合って、
「それなら下(しも)で十五日、上(かみ)十五日というように婿になってもらおう。そうして、両方の家の間に橋を掛けよう」ということになり、
「そこへ板の橋を掛けりゃ、世話ぁやいて通うのにめげぇけに、金(かね)の橋掛けよう」と話がついて、金(かね)の橋が掛かったげな。
 そのことが田植え歌になってね、

 婿さんがござる道に 板の橋を掛きょうか

と音頭取りのサゲさんが歌うと、今度は早乙女さんが、

 アラ 板の橋ゃどろどろめいで 金(かね)の橋を

というふうにつけるものだと。その謂れがこの話なんだげな。
 それで初夢に手代が見たのは、二軒の長者の婿になる夢だったのだげな。
 で、とんとん昔こっぽし。

解説

 語り手は安部イトさん(明治27年=1894年生まれ)で、昭和45年(1970年)4月にうかがった話である。
 これは関 敬吾『日本昔話大成』では、本格昔話「5運命と致福」の中に「156夢見小僧」として登録されている話なのである。