禅問答
語り(歌い)手・伝承者:鳥取県倉吉市湊町 名越雪野さん・明治40年生
これは昔の話だけれどなぁ。昔々、和田に定光寺(じょうこうじ)という大きな寺があった。そこによいオッさん(住職のこと)が来られた。そのことを聞いたのが鳥取の天徳寺さんだって。
「なんと、和田の定光寺にええオッさんが来られたちゅうことだが、いっぺん、問答をかけに行かしてもらいます」という使いが定光寺に来たのだって。
そうしたところが、定光寺のオッさんが、
「はあて、困っちゃったがなあ。わしゃ寺ぁ金で買ぁてきただけんなあ。わしゃ問答なんかのことを知らんだが」と本当にそれが苦になって苦になって困っておられた。
ところで、その和田の定光寺の十六羅漢(らかん)さんというのが、そのころたいそう流行って、そこへ参る者はどのような願いごとでも聞いてもらえるということで、参る者が多かった。
さて、その和田にチョチ兵衛という者がいて、このチョチ兵衛が、
「おら、いっそのこと百姓なんかやめて、饅頭(まんじゅう)屋にならあかい」ということで饅頭屋になった。そして、「今日は餡(あん)が顎(あご)について食われない」「今日、餡が柔らかかった」と言って、饅頭だけはどうしてもうまく行かなかったのだって。
そうしていたところが、嫁さんが、
「お父っつぁん、大きな饅頭にして安うに売りゃどがぁならえ」と言った。
「うん、そうだわ。大きな饅頭だったら、ちいたぁ顎についてええし、なんでもええわ、がいな饅頭こしらえようや」ということになって作ったら、大きいのが評判になったって。それでたいそう流行ったのだって。いつもぞろぞろぞろぞろ饅頭買いが来る。しかし、それは流行ってよいけれど、オッさんがひどくこのごろやつれてこられたので、
「なーんと、和尚さん。あんた、このごろどこぞ具合いが悪いことはないかな」とチョチ兵衛が聞いたら、
「おらなあ、どこも悪いこたぁないが」
「だけれど、おらが一ヶ月ほど饅頭屋でここ借りておるけれども、あんたはだんだん何だか弱られるようなだが、診(み)てもらいなはんしぇよ、お医者さんに」
「ええ、別にどこが悪いちゅうことはないだけん」。
しかし、チョチ兵衛が再三聞くものだから、それでとうとうオッさんも、
「じつはなあ、チョチ兵衛さん、天徳寺さんが三月の十六日に問答かけに来るのに、なんとわしゃ問答知らんだいな」
「問答ちゅうようなもなぁ、算数みたあなこたぁにゃあだらあがな。まあ、二二が四、ちいことにならあでも、きゃ、ええ加減なそれに間に合ぁちゅうことになりゃええだらぁがな」
「うん、まあなあ、そういうやぁなことだ」
「ま、それなら、任せなんせ、おれに。おれが代わって務めてあげるわいな」てチョチ兵衛が言っただって。
そうしたところが、いよいよ三月の十六日になって、昔のことだから天徳寺さんがお供をぞろぞろと連れて上井から行列が続いたのだって。そうして倉吉の大岳院(だいがくいん)が中宿で、そこまで来られ、ちょっと落ち着き場で休んで向こうへおったのだって。
そうしたら、それからチョチ兵衛が門のところで饅頭を売っており、そうして、
「はあ、二銭だ、二銭だ。饅頭、二銭だ」と大きな声をするものだから、定光寺さんが、
「まあ、チョチ兵衛があがなこと言って、おれに任せなんせ、言ったけど、なんだあ、わは饅頭ばっかり売っとってからに。おりゃどがぁにするだ。こりゃ困っちゃったがや」と言っておられたところ、そのチョチ兵衛が走って上がって来て、
「問答を出しなんせ、出しなんせ。はい、はい」という具合いで服装を一式借りて整えていたところ、天徳寺さんがいよいよやってきて定光寺の段々を上がって、そうして白いホッスを縦にシュッとふって、次に横にパーイパイとふられたら、チョチ兵衛も同じように、
「おれもやったるかい」とやったのだって。そうしたところが、向こうが一礼された。向こうがしたなら、また、こちらもしようとチョチ兵衛も同じようにしたら、今度は天徳寺さんは手を大きく円くし饅頭のようにされたのだって。するとチョチ兵衛は、
「なんだい。この天徳寺、おれを饅頭屋とみたな。よし、いつもは二銭だけど、こがながいな寺の和尚さんなら、三銭でもよい」と指を三本出した。ところが、相手は今度は指を二本出されたのだって。それでチョチ兵衛は二銭のものを三銭で売ろうと思っていたら、それより高くは買わないのか、と思ってアカベーをした。すると相手は五と出したが、あれは何だろうかと思ったが、すぐ、
-ああ、五つごしぇーということだな-と思って、それで、
「うん」と言った。そうしたとこらが天徳寺さんが、
「けっこう、けっこう」と言って帰られかけたので、
「いや、ちょっと待ってください。昼の馳走(ちそう)もちゃんと用意してありますのでどうぞ」と言ったら、
「いやーぁ、ご馳走なんかは一つもいらん。ああ、これでなあ、わしゃ満足した。定光寺にはええ和尚が座られた」と言って帰られたのだって。
そして、その和尚さんは大岳院まで帰ってから話されたのだって。
「まーあ、りっぱな和尚だ」
「今日の問答は、どがぁな問題を出されたかい」
「はあ、わしは地球と出したらなぁ、なら、向こうは三千世界と言われた。それでは日本は、って言ったらなぁ、眼(まなこ)にある、と言う。五界はないかって言ったら、うん、て言われた。そいでなあ、ように満足した」
「あーあ、それはりっぱな問答だったし、よかった、よかった」と、大岳院さんの方では言われていたと。
ところが、チョチ兵衛の方では、
「なんとおまえは、どがぁな問答だった」
「なーんだ、おれ、饅頭屋とみとったと思って、大饅頭と出いたけえ、三銭だ、と値上げしたった。そうしたところが二銭に負け、言ったけえ、アカベーて言ってやった。そがしたところが五つくれて言われたけえ、よし、とこうやった。饅頭の問答だった」
「ああ、そうか、そうか」。
聞いてみたところが、そういう問答というものは理屈にはまればそれでよいので、それで両方とも満足されたっていうことだって。
解説
語り手は名越雪野さん(明治40年生)から昭和59年9月にうかがった話である。お互い自分の立場で相手の問いや答えを判断し、都合のよく解釈して満足するという笑い話である。しかも、一方の知識人の和尚に対するは庶民階級の饅頭屋という取り合わせの奇妙さが、いっそうユーモアを醸し出している。関敬吾『日本昔話大成』では「笑話」の「巧智譚 B 和尚と小僧」の中の「菎蒻(こんにゃく)問答」に位置している。
餅屋(豆腐屋)が和尚に代わって旅僧と問答する。1、(a)旅僧が小さな輪をつくり「太陽」はと問う。餅屋は小さいと解する。(b)餅屋は、大きい輪をつくる。僧は世界を照らすと解する。2、(a)僧、指を3本出して、三千世界はと問う。餅屋は3文で売れると解する。(b)餅屋は指を5本出して5文だという。僧は五戒で保つと解する。3,(a)僧、指を4本出して四恩はと問う。餅屋は4文にまけろと解する。(b)餅屋はいやだとあかんべする。僧は目の下にありと解する。(唖問答ともいう)。
こうして眺めてみると、倉吉市の話は餅屋の代わりに饅頭屋、旅僧の代わりに鳥取の天徳寺の和尚ということになっており、後はほとんど同じである。ただ、倉吉市の話は問答に出かける天徳寺さんの道中の中宿に、倉吉の大岳院という寺が用意されている点など、こちらの方が工夫された筋書きになっていると解釈できる。さらに天徳寺さんの行列が上井(あげい)から続くなどと、かなり誇張された内容で語られている。
ところで、類話をみると、鳥取県では、これまでに2話ほど収録されている。一つは昭和45年に発行された稲田浩二・福田晃編『大山北麓の昔話』(三弥井書店)の中にあり、琴浦町(旧・東伯町)の体玄寺の和尚に京都にある本山の妙心寺の雲水が問答をしに来ることになっており、和尚に代わって対決するのは、やはり饅頭屋となっている。また、いま一つは昭和50年に出された福田晃・宮岡薫・宮岡洋子編の『伯耆の昔話』(日本放送出版協会)にあり、中山町の話で、大家の寺の方丈と馬鹿な坊主が寺に釈迦を迎えるため唐の国に行き、釈迦と問答をするが、言葉が分からないので手真似で問答をし、結局は釈迦の出した問答を、スレ違いの解答ながら正解と釈迦が思い、みごと日本へ釈迦を迎えることに成功するという筋書きになっている。