羽釜借り
語り(歌い)手・伝承者:島根県出雲市乙立町 伊藤アキコさん・明治38年生
とんとん昔があったげな。
たいへんな親方の家と貧乏人の家が近所にあったげな。
その親方の家では下男や下女を使ってにぎやかに暮らしておられるし、貧乏な家では家族が多いけれど食べ物がなくて、それでその親方の家の朝飯が終わったころになると、羽釜を借りに行っていたって。そしてそれを借りに行くと、まだ羽釜は洗わずにあるから、その洗わないのを借りて帰っては、また、洗って持って来て返していた。
そうして貧乏人の家からは毎朝、羽釜を借りに来るので、あるとき、その女中さんたちが、
「まぁず、こんなおばさんは羽釜借りぃ毎朝来うが、そっときれいに洗っちょったらどげなだらかい」と言って、それから洗っておきました。そうしたら、それからも借りに来るけれども洗った釜ばっかりなので、中の残りがありません。それから二、三日もしたら、羽釜を返しに来なくなったそうな。
親方の家では、
「羽釜もどしだり来んだが、なしてだぃだら」と言って、貧乏人の家へ行ってみたら、みんな死んでいたそうな。
貧乏人の家では羽釜をだいじにして、ご飯を取った後を、お茶でも少々も入れて、縁(へり)をシャモでなでて、その汁は飲んでいた。その汁というものは精(栄養)になるものだからね。
それで物をだいじにしなければならないということです。
それでこっぽし。
解説
語り手は伊藤アキコさん(明治38年生)。平成5年7月にうかがった。
なんとも哀れな話である。貧乏人の家では、金持ちの家の食べ終わった羽釜についている残り物のご飯粒で、飢えをしのいでいたというのである。かつての貧しかったわが国の生活の一断面をしのばせる話であろう。
筆者も以前、同類をどこかで聞かせていただいた記憶があるけれども、残念ながらそれがどこの地区だったか忘れてしまって特定できないのは残念である。しかしながら、確かに同じ話は語られていたわけで、案外、かつての農村などで支持されていた話ではなかったのだろうか。
経済大国となった現在のわが国の実情からは、あまり考えられない内容ではあろうけれど、比較的最近まで、懸命に働いていても毎日の食事に事欠く、そんな貧しい家庭は意外と多かったはずである。
したっがて、この話をそれなりに噛みしめて、おごり高ぶりすぎた時代となっている今日、例えばアフリカで飢餓に苦しんでいる人々に思いをいたす謙虚な心の優しさを、わたしたちはぜひ持ちたいものだと思うのである。