花咲爺

語り(歌い)手・伝承者:鳥取県大山町高橋 片桐 利喜さん・明治30年(1897)生

 なんとなんと昔(むかし)あるところに、貧乏(びんぼう)な貧乏なじいさんとばばさんとあっただって。そうしたところが、じいさんがどこだったか山(やま)の方(ほう)へ行(い)きかけたら、たくさん男(おとこ)の子(こ)がおって、かわいらしいかわいらしい犬(いぬ)ころを、たいへんに押(お)したり引(ひ)っ張(ぱ)ったりして、なぶり殺(ごろ)しにするようにしているものだから、
「これ、わっち、おらにその犬ごしぇんかあ」と言(い)ったら、
「何(なに)やあだ。われがやあなじいにやれへんわい」と言う。
「おれんなり、銭(ぜに)出(だ)すけんごしぇえやあ」と言っても、
「銭でもいらんわ」と言う子もあるし、
「あげなこと言わずと銭ごせりゃあやらいや」と言う子もあるしして、それで、じいさんはとうとう銭を出してその犬ころをもらったのだって。
 そうして連(つ)れて帰(かえ)って、ポチという名(な)につけて、
「ばばや、ばばや、あんまり子どもがこの犬ころをえらいいじめるで、かわいさぁで、おら、買あてもどったわ」と言われました。そうしたら、ばあさんが、
「何すうだ。この糞(くそ)じい。ようにおらがとこでさや、置(お)かやが(置きようが)ないのに、この犬ころ、どげして飼(か)うだら。われ、飼っとれ、なら、おら、ここにある米でお粥(かゆ)なと煮(に)て食(く)っちょうけん」と言って、とてもばあさんが怒(おこ)られたら、たらたらたらたらっと、犬ころが走(はし)って出てしまったそうです。
「それみい。ばば、わが怒ったけえ出たがな」。
 犬ころが出てしまったので、じいさんが高(たか)いところに登(のぼ)っていて、
「赤(あか)、カーカッカッカー」と言われたら、犬ころは前(まえ)にあった二銭や一銭の真(ま)っ赤(か)な銭を、たくさんに持(も)ってもどって来(き)たのだって。
「見(み)い、ばば。わぁが怒ったが、山(やま)のやあに銭、くわえて来ただで」とじいさんが言うと、
「あら、銭くわえて来たかや」と言って、ばあさんの機嫌(きげん)が直(なお)って、
「はや、ほんなら、ま、このお粥なと食わしてやらはい」と言って。ばあさんはお粥を煮ておられたので、それを出して食べさせたら、今度(こんど)また犬ころが出たので、それでじいさんがまた、
「白(しろ)、カーカッカッカー」と言われたら、今度は、白い銭をたくさん、五十銭(せん)や二十銭や、また十銭やらがあったのだが、そのような銭をくわえて来たのだって。そうしたら、ばあさんもとても喜(よろこ)んで、
「ポチやポチや」と言って、その犬ころをかわいがられるのだって。
 そうしていたら、隣(となり)にもまた貧乏な貧乏なじいさんやばあさんが住んでいたというが、そのじいさんやばあさんが、
「こりゃ、隣のじいさん。そっちには犬飼っちょって、がいな銭くわえて来たてえが、おらにも貸(か)せっさい」と言うので、それから、
「だれんも貧乏でえらいなぁ一つことだけん、なら、いっぺん、使(つか)わはいな」と言って、その犬ころを貸せると隣のじいさんが連(つ)れて出なさったのだって。そうして、じいさんが、
「赤、カーカッカッカー」と言って、高いところに上(あ)がっていて呼(よ)んだら、その犬ころは赤土(あかつち)をすごくくわえて来たのだって。
「このゲダ(外道(げどう))が、赤土なんかくわえて来て」と隣のじいさんが、とても怒(おこ)られたら、今度、また犬ころが出たので、
「白、カーカッカッカー」と、そのじいさんが呼ばれたところ、今度は犬ころは白土(しらつち)をくわえて来たので、それから、また、じいさんはとても怒って、腹立(はらだ)ちのあまりその犬ころをたたき殺(ころ)してしまいなさったって、
それから前(まえ)のじいさんの家(いえ)では、犬ころがあまり帰(かえ)らないので、隣のじいさんの家へ行(い)って、
「ポチ、もどいてごっさい」と言うと、
「おう、もどいちゃあわあ」と、死(し)んだ犬をポイーッと投(な)げられたのだって。そして、
「赤、カッカーて言わ、赤土くわえてくるし、白、カッカーて言わ、白土くわえて来るし、あんまり胸糞(むなくそ)が悪(わあ)けん、たたっ殺いちゃったわ」って隣のじいさんは言ったと。
 そうしたところが、
「かわいさに、かわいさに」と前のじいさんやばばさんは、元(もと)の山(やま)の栗(くり)の木(き)の下(した)にその犬ころを埋(う)めて、毎朝(まいあさ)毎晩(まいばん)、参(まい)りなさるのだって。そうして、今度、
「赤、カーカッカッカー」と言われたら、その栗の木からバラバラーッと銭が落(お)ちる。朝(あさ)も晩(ばん)もそうして参りなさったら、いつも銭が落ちるのだって。
 そのことをまた、隣の意地悪(いじわる)じいさんが聞(き)いて、その栗の木の下に行っていて、そうして、
「赤、カーカッカッカー」と言われるもんなら、栗のいががキンカ頭(あたま)にバラバラーッと落ちる。そのじいさんはまた、胸糞悪(わる)がって、その栗の木、伐(き)ってしまわれたのだって。
 前のじいさんとばあさんが行(い)って見(み)たところ、栗の木が伐ってしまってあるから、
ーまた、隣のじいさんが伐らはったに違(ちが)いにゃあわいーと思(おも)って、
「ほんにまあ、こりゃまあ、どげしやもにゃだけん、つき臼(うす)なとこしらええだわい」と言って、倒(たお)れた栗の木からつき臼をこしらえて、
「あしたはポチが日(ひ)だけえ、餅(もち)を一升(いっしょう)ほどつかあや、そげすりゃ二人だけん食(く)われえけん」と、一升の餅米(もちごめ)を蒸(む)しておいたら、たいそう増(ふ)えて、一升つけば二升になる。五合つけば一升になる。どうしたことか、餅が倍々(ばいばい)になるのだって。
 またその話(はなし)を聞(き)いて、隣のじいさんやばあさんが、
「五合つきゃ一升になあ、一升つきゃ二升になあてえけん、一升でいいわ」てって。餅米を一升蒸しておいたら、五合(ごう)ほどになってしまったって。だから、餅をついたら、またとてもとても胸糞悪がって、今度はその臼をたたき割(わ)ってしまったのだって。そして、そのつき臼を割り木(き)にしてしまわれたのだって。前(まえ)のじいさんとばあさんは、
「ほんなら、ま、どげしようもないだけん」と焚(た)かれた臼の灰(はい)を取(と)っておいて、往還(おうかん)の日(参勤交替(さんきんこうたい)の行列(ぎょうれつ)が通(とお)る日のこと)にその灰を持(も)って出(で)て、道路(どうろ)のへりに立(た)っていたら殿(との)さんがお通りになった。じいさんはざるに灰を入(い)れて、
「花咲(はなさ)かじじい、花咲かじじい」と言っていたら、殿さんが、
「おもしろいことを言(い)うが、これには、まあ、一つ花を咲かしてみい」と殿さんが言われたので、じいさんがその灰をまいたら、あたりの枯木(かれき)に桜(さくら)の花やみごとな花が、本当(ほんとう)にいっぱい咲いたのだって。その褒美(ほうび)にじいさんは、とてもたくさんな銭を殿さんからもらって帰(かえ)ったのだって。
 そうしたら、また、その話を聞いて、隣のその意地悪(いじわる)じいさんが、ざるにそこの灰を持って出ていたら、再(ふたた)び殿さんが通られた。
 じいさんはざるに灰を入れて、
「花咲かじじい、花咲かじじい」と言っていたら、殿さんが、
「こないだも、まあ、見事(みごと)に咲かしたけん、なら、もう一回(かい)咲かしてみよ」と言われたそうな。
 それから、じいさんが咲かせてみたら、今度は、とても花も何も咲くどころではなく、そればかりか殿さんの目(め)に灰が入ったのだって。
 それで、殿さんが非常(ひじょう)に怒られてねえ、隣のじいさんはとうとう縛(しば)られてしまわれたのだって。それで、悪いことばっかりされたじいさんは、何(なん)にも報(むく)いられず、いいことされたじいさんは、たくさんに金(かね)を溜(た)めて、そのじいさんとばあさんと二人は、休(やす)んでいても食べて行かれるようになったのだだって。
 その昔こっぽり。

解説

 昭和61年8月3日にうかがった話である。「花咲爺」といえばよく知られているが、それなりに地方色をちりばめて語られていることに注目していただきたい。
この片桐利喜さんは、平成4年春、94歳で天寿を全うされたと聞く。ご冥福を祈るばかりである。