極楽と地獄
語り(歌い)手・伝承者:隠岐郡海士町御波 前田 トメさん・大正3年(1914年)生
とんとん昔があったそうな。
あるところに和尚さんと小僧さんとおったそうな。
小僧さんは毎日、「南無阿弥陀仏」と唱えておったそうな。
ある日のこと。小僧さんは和尚さんに、
「なんと、師匠さん。地獄、極楽ちゅうもんがあるそうなに、その地獄、極楽、いっぺん、わしの前で悟るように見せてごさんか」と言ったそうな。
そうしたら和尚さんは、
「そうか、そうか、おまえ、地獄、極楽いうものがあるかどうか、信用できのか(できないのか)。そんなら今日は地獄、極楽を見せてやっけんこっちへ来い」と言って、和尚さんは小僧さんを連れて、遠い遠い野原のようなところへ行ったそうな。
そうしたところ、その野原にはりっぱなテーブルや金銀の食器が並んでいて、そのうえご馳走があり余るほどたくさん並んでいるそうな。
やがて、どこから来るともなしに田舎風な者やとても人相の悪い者たちがやって来て、その食べ物を食べるのだそうな。
その食べ方はどんなかといえば、長い長いものすごく長い棒の先に匙(さじ)が縛りつけてあったそうなね。そして、それを使わないと絶対に食べられないそうな。そこでその人たちが一生懸命になって、その長い匙で食べようとするけれども、自分の口にはどうしても入らないそうな。棒が長すぎて周りにこぼれてばかりで、一つも自分の口には入らない。気は焦るけれどもともかく周りへこぼれて絶対に食べられない。
小僧さんが熱心にそれを見ていると、和尚さんが言われることには、
「小僧や、これが地獄じゃで。さあ、次は極楽じゃ。まあ一つ、向こうへ行かぁ」。
そこで向こうへ行ったところが、今度もまたきれいなテーブルに金銀の食器が並んでいた。そして、今度来た人たちも同じように長い棒に匙がついたもので食べるようになっているそうな。
ところがそこに来た人たちはどうして食べるかといったら、向こうのテーブルにある食べ物を匙ですくって、向こうの人に食べさせるのだそうな。
そこで向こうの人は口を開けて食べ、また、向こうの人はこちらの人にこちらのテーブルにある食べ物を匙ですくって、こちらの人に食べさせるのだそうな。そのようにしているので、お互い思うとおりに何でも食べられるのだそうな。
しかし、自分の前の食べ物を自分ですくって自分で食べようとすると、とても難しい。ここではそのようにして向こうの人はこちらの人にこちらの食べ物をすくって食べさせ、、こちらの人は向こうの人に向こうの食べ物をすくって食べさせするものだから、ご飯もおかずもうまくきれいに一粒も残さずに食べてしまうことができるのだそうな。和尚さんは小僧さんにこうして地獄と極楽を教えてあげたのだそうな。
人間というものは、自分のことばかりしているのが一番つまらないことです。人のために尽くせば自分も救われるのですよ。
(昭和51年7月11日収録)
解説
ここに登場してくる主人公は、和尚さんと小僧さんである。この二人を主題としたものでは「鮎は剃刀」「指合図」「飴は毒」などの話が知られている。このいずれも和尚さんが小僧さんの知恵に負けてしまうという、逆転のおもしろさが隠れた主題になっているのであるが、しかし、ここではその反対で、あくまでも和尚さんが主導権を握って、小僧を導くという話になっている。したがって昔話の中の笑い話にある「和尚と小僧」譚の法則に添っていない。
この話は、同じ環境にありながら、片方では地獄となり、他方では極楽になっている。自分のことだけを考えれば、結果は決して幸せにはならず、常に他の人に思いを巡らす広い心を持てば、自然と豊かで幸せになるということを表現しているのである。