一番初めは一宮・お手玉歌(隠岐郡隠岐の島町倉見)

語り(歌い)手・伝承者:山田ハツ子さん(大正10年生)

一番初めは一宮
二また日光東照宮
三また讃岐の金比羅さん
四はまた信濃の善光寺
五つで出雲の大社(おおやしろ)
六つ村々天神さん
七つ成田の不動さん
八つ八幡の八幡宮
九つ高野の弘法さん
十で所の氏神さん
これほど信心かけたのに
浪子の病気は治らせぬ
ゴォーゴォーゴォーと鳴る汽車は
武男と浪子の生き別れ
鳴いて血をはく不如帰
鳴いて血をはく不如帰

(収録日 昭和55年(1980)8月9日)

解説

 少しお年を召された方ならご存じの懐かしのメロデイーかと思う。ただ他の地区で「三」のところは「佐倉の宗五郎」である。これは伝承過程で変わったのであろう。また、お手玉歌としてうたっていただいたので、そうしておいたが、山陰両県とも実際は手まり歌とする場合も多い。子どもの世界では、手まりだろうとお手玉だろうと、それを行うときに当てはまりさえすれば、自在に応用を利かせて使うから、ある伝承者がお手玉歌として記憶していても、別な人はそれを手まり歌とする場合はよくある。この歌もそうような種類のものであろう。
 ところで、歌は大きく二つに分かれている。すなわち「十で所の氏神さん」までの寺社づくしの部分と、「これほど信心かけたのに」以下とにである。
筆者は、昔から前半部が数え歌形式として独立して存在していたところへ、明治後期になって後半部分が付け加えられたと推測している。なぜなら寺社づくしだけの単独伝承タイプでこれを収録する場合も多く、伝承者に尋ねても、それだけで完結しているとの答えとなるからである。
 それはそれとして、後半部分を考えてみよう。実は徳富蘆花が明治31年(1898)11月から翌年5月まで『国民新聞』に連載して絶賛を博したた小説「不如帰」が、その背景になっている。この主人公は海軍少尉川島武男と妻浪子であり、その愛情と悲劇を描いたものであり、二人の別れの部分を描いたのが、この列車でのすれ違いの光景となっているのである。
江津市桜江町川戸では、さらにその部分が次のように詳細にうたわれていた。

一番初めが一宮
二また日光中善寺
三また佐倉の宗五郎
四また信濃の善光寺
五つで出雲の大社
六つで村々鎮守様
七つで成田の不動様
八つ八幡の八幡宮
九つ高野の弘法大師
十で所の氏神さん
これほど心願かけれども
浪子の病気は治りゃせぬ 
武夫が戦地へ向かうとき 
白い真白いハンカチを
うちふりながらねえあなた
早く帰りてちょうだいね
グウグウグウグウ
鳴る汽車は
武夫と浪子の泣き別れ
泣いて血を吐くホトトギス(米原シゲノさん・大正2年生)他