|

昭和40年ごろこの話を伺った。筆者が鹿足郡吉賀町柿木村で中学校教師をしていた時代のことである。関敬吾博士の分類ではこの話は「本格昔話」の「誕生」の項目の中に「田螺息子]として登録されている。
さて、語り手の小野寺賀智さんについて述べておく。彼女は明治23年2月28日、同町注連川(しめがわ)で生まれ、昭和55年に90歳の高齢で亡くなっておられる。彼女はいつも明朗で魅力的な方だった。ご自分のことを「カブの婆」と称して、知り合った方々に民話などについての便りをこまめに書いておられた。
筆者は昭和37年から5年間、当地にいたが、よくお宅へお邪魔しては民話や民謡を伺ったものである。ここに紹介した話もそのような一つである。彼女はだれにも親切だった。民俗学会でも高名だった筑波大学教授、宮田登氏(故人)とも昭和35年夏の西石見民俗調査で知り合い、終生文通を続けるような親しさだった。喜寿の祝いだったか宮田氏は紫の頭巾と座布団をプレゼントされ、うれしそうに見せておられた姿が今も脳裏に浮かぶ。
また、昭和50年ごろから偶然訪れた國學院大学の民話研究グループの学生たちともすっかり親しくなられたが、このように彼女の人柄に魅せられた学生たちは、東京から訪問を繰り返し、117話にのぼる民話を聞き出した。そのようにして横浜市に「『小野寺賀智媼の昔話』を刊行する会」という事務局を置いた彼らは、昭和56年3月に『小野寺賀智媼の昔話』というB5判112ペ−ジなる単行本を出版した。小野寺さんのすばらしさを示すエピソ−ドではなかろうか。 |