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喜助とおさん狐

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おはなし

語り手 東伯郡三朝町大谷 山口 忠光さん・明治40年(1907)生

 昔あるところへなあ、喜助ちゅう人がおって、それが割合貧乏しとって、冬になっても餅米を買わあって餅米は、銭はないし、困っとったところへ、
「お父つぁん、もうじき正月だが、餅米を買う銭もないし、困ったもんだなあ」って、嫁さんが言いよったら。
「待て待て、おれにちょっと思案がある。おりゃこの奥へ上がって、おさん狐をだまいて、あいつぃ銭もうけをさしたらぁ」て。
「そげな罰があたるようなことはしられんで」って。
「いやまあ、この節季、かなわんといだけえ、やったるわい」って。
 それから、奥の山へ入って、
「お-い、おさん、出てこ-い、出てこ-い」て言いよって、そうしたら狐が女ぃ化けて出てきたって。
「喜助さん、何の用だ」って。
「おまえに用があったわい」
「何だいな」って。
「おりゃあなあ、こないだごろから嫁に頼まれとるけえなあ、嫁世話せんならんだ。嫁なってごせ」って。
「そうがなあ、いつまでもおりゃあでもええけえ、おれがもどったらなあ、その夜さがすんだら、明くる朝間になったらおりゃあでもええけえ、逃げてもええけえ、なってごしぇ」
「ま、そのぐれえな時間ならなってあげるわいな」
「ほな、頼んぞ。時間にゃおれが迎えに来るけえ」ちって。
 そいから、その喜助さんは、で、その嫁さんを頼まれとったとこへ行って、
「おい、とうとう嫁ができたわい。できたことはできたけどなあ、ちいと銭がいっといるだわいや」て。
「何ぼほどいったかいな」
「五円はもらわにゃいけんがやあ」
「ああ、五円ども算段するするする。そいでいつだかいなあ」
「おまえの家の都合がよけりゃあ、あさってでも来るぞって。銭さえできりゃあ、あさってでも連れて来るって。嫁の方に銭がいるでなあ」って。
「ええ、なら銭こしらえたらじき持って行く」って。
 それから銭をこしらえて持ってきたけえ、それから銭は懐へ入れといて、
「かかあ、こいからあの山ぃ行って、山ゴンボの根を掘って来い」って。
「何すっだいな」
「ま、何でもいいけえ掘って来い。そいから蕗の根もちいと取ってこい」
 そいから、かかあに言いつけといて、そいからおさんのところへ行って、
「おおい、おさん、出て来-い」
「どがなことかいな、喜助さん」
「あさって嫁いかにゃあならんだ。こしらえしてごしぇ」って。
「そっであさっての晩、ちょっと早になあ、おれが迎えに来るけえ、それまでこしらえしとれよ」って。
「はいはい」
 そいから、もどって、嫁さんに、
「おい、ように話は決まったけえなあ、あの掘ってきた山ゴンボの根と蕗の根とこまに刻んでせんじとけ」って。
「せんじてなあ、大きな盆にように盛っとけ」ちった。
「何だいな」
「まあ、何でもええけえ、せっと言うやにしとけっ」て、
 そいから、さしといておさんを迎えに行って、そいからそこへ連れて行ったところが、
「何といかさま、喜助さん、いい嫁さんを世話してごしなった。ああ何ちゅううれしいこっだらあか」ちゅう。さあ、酒や肴でもてないてもらって、けど、肝心の狐さんは、そのうまいもんがそこらの方に並んどるけど、食わあやないし、口から唾を出いて待っとっても食わあやないし、そいから、
-小早にこの喜助さんはいにゃあええわい-と思っておったら、まあ、いい加減によばれてから喜助さんが、
「まあ、ほんならいぬるけんなあ。まあ嫁さんを頼むけえなあ」ちって、そいからもどってしまった。そいから、-やれやれ-と思って、
 そいからもどって嫁さんに、
「おい、おれはこれで寝るけえなあ。もしあそこの嫁の家から、おれがだまいて狐を連れて行っただちゃんこと言ってぐずって来るかも知らんけえ、なんでぇ、そこらをうまいこと話さにゃいけんど。それが連れ合いだけえ」言って。
「はいはい、分かりました」。それで喜助さんは寝とるし、明くる日になったところが、その家から、
「喜助さんはおんなるかや」てって。
「へえ、おんなはるだが」
「喜助さんちゅう人は、まあ、えらい人だ。この近隣におって。ようもようもおれをだまいて。銭の五円も取って、『嫁世話したる』ちゃんことを言って、狐を世話してからに。銭もどいてもらわにゃいけんし、さんがいをしてもらわんにゃいけんが」って。
「え-え、うちのおとっつぁんがそがなことをしなはったがかえ、うちのおとっつぁんは、おまえ、こないだごろから、まあ、『何だか熱があるようでショウカンになっただも知らん』ちって、まあ、何だかかんだか、あれが効くこれが効くって言いなはるだけえ、まあ、草の根を掘ってきてせんじて飲ませまして、まあ見てごしなはれ、枕元へこのごとくに薬をせんじたかすがあるだが。おとつっぁんは台無しじゃ。いま、おまえ、熱を冷やいてあげよるところだが」って。
「そがなはずがないが」って。
「でも、ほんなら上がって見てごしなはれ」
「まあ、そがにも言いなはら、そがなだわ。ほんなら喜助さんがおれをだまいたのではない、うちのもんが狐にだまされたんかいなあ、まあ、残念なけどしかたがないわ」って、
「まあ、すまなんだなあ。邪魔ぁしたなあ」って。そいでいんでしまった。そいからいんでしまってから喜助さんが、
「どうだ、かかあ、うまくいっただらが。ああ、餅げでも何でも五円ありゃあ、だいぶん買えるけえ」ちって、ほいでいい正月を迎えたちゅう話じゃ。昔こっぽり。


解説

 これは珍しい話である。主人公の喜助が狐を利用して、近所の人をだまし、五円をもうけたというオチがついており、これで物語はめでたしめでたしで終わっている。
 昔話は人をだましたことをよしとする現実的な面がある。道徳上認められないものも、この世界では容認される場合がある。この話はまさにそのようなものの一つといえる。
 そして関敬吾博士の『日本昔話大成』で調べてみても、残念ながらこの話の戸籍はない。もし、考えられるとするならば、本格昔話の「十五 人と狐」とか、あるいは笑話の中の「四 狡猾者譚」に位置づけられてしかるべきだと思うのであるが、両者ともに類話が紹介されていない。つまり、これは三朝町で見つかった単独伝承の話というべきものである。
 ここに登場する近所の人はいたって善良である。喜助にだまされたと感じ、彼の家に抗議に行きながら、結局は喜助の妻の言葉の嘘が見抜けず、そのまま帰って行くのである。
そこのところであるが、語りを眺めると、喜助が妻に対して、「おい、おれはこれで寝るけえなあ。もしあそこの嫁の家から、おれがだまいて狐を連れて行っただちゃんこと言ってぐずって来るかも知らんけえ、なんでぇ、そこらをうまいこと話さにゃいけんど。それが連れ合いだけえ」と言う。それに対して彼の妻も「はいはい、分かりました」と答えている。そして怒ってきた近所の人に向かって、「えーえ、うちのおとっつぁんがそがなことをしなはったがかえ、おとっつぁんは、おまえ、こないだごろから、『何だか熱があるようでショウカンになっただも知らん』ちって、何だかかんだか、あれが効くこれが効くって言いなはるだけえ、草の根を掘ってきてせんじて飲ませまして、まあ見てごしなはれ、枕元へこのごとくに薬をせんじたかすがあるだが。おとつっぁんは台無しじゃ。いま、おまえ、熱を冷やいてあげよるところだが」と巧みにまくしたて、相手を煙にまく。勢い込んで怒鳴り込んだ男はというと、「まあ、そがにも言いなはらそがなだわ。ほんなら喜助さんがおれをだまいたのではない。うちのもんが狐にだまされたんかいなあ。まあ、残念なけどしかたがないわ。すまなんだなあ。邪魔ぁしたなあ」と言って帰ってしまう。まさに夫唱婦随、みごとなコンビネーションで善良なる近所の人を追い払っている。こうして夫も夫なら妻も妻なのである。
 このようにしてこの昔話の中では、道徳的には非難されるべき行為であっても、その点よりも夫婦は同一運命共同体として、両者の一致した行動をよしとする思想が秘められていることが分かる。
 これは結局、悪いことではあっても、それが成功すれば認められるということを意味しているのではなかろうか。つまり、別な点から眺めると、知恵のある者が愚鈍な者をごまかして富を得ても、それは知恵者であるゆえに許されるという、常識では簡単に納得できないような思想が、昔話の中には流れているようである。
 こうして見てくると、昔話の世界の底を流れている考えは、大物といわれているどこかの国の政治家や実業界などの人物たちが、「ごまかして富を蓄えても、大衆が分からなければ許される」とする考えに共通するように思えてきてならない。読者のみなさまは、このようなたわことを述べているわたしの考えを、どのように判断なさるであろうか。



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