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鉈取られ物語

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おはなし

語り手 松江市美保関町七類 森脇 キクさん・明治39年(1906)生

とんと昔があったげな。
とんと隣の唐六左衛門が鉈を借りに行きたげな。
ついたちの日に行きたら、「ついもどいた」。
ふつかの日に行きたら、「不都合なことばっかり言わさる」。
みっかの日に行きたら、「見たこたぁにゃ(無い)」。
よっかに行きたら、「用のにゃ(無い)に何でござったか」。
いつかに行きたら、「いつのこと、疾(と)うもどいた」。
むいかに行きたら、「無理なことばっかり言わさる」。
なのかに行きたら、「何のことだか」。
ようかに行きたら、「よもよも(本当に)よう来たなあ」。
ここのかに行きたら、「ここにはにゃ(無い)」。
とうかに行きたら、とうとうもどさだった。
そっで昔こっぽり。


解説

 この数え歌形式を持った昔話は、昭和45年7月26日に聞かせていただいたものである。このときは島根県教育委員会が中海周辺緊急民俗調査を行ったおり、その調査員としてわたしも参加していた。
 不思議なことにこの日、同じ七類集落で作野ヨリさん(明治三十七年生)から、同類をうかがっている。それは次のものである。

とんと昔があったげな。
とんと隣の唐六左衛門に鉈を貸せました。
いくら経っても返してくれんで。
ついたちに取おに行きたら、
「ついでに返した」って言って、
鼻はずいちょったって(相手にしてくれないで、の意)。
今度あ、ふつかに取おに行きたら、
「不都合なこと言え」てて言って、また追い返した。
みっかに取おに行きたら、
「見たこたぁ無い」てってしまった。
よっかに取おに行きたら、「用はない」てった。
いつかに取おに行きたら、「いつのこと返した」て。
むいかに取おに行きたら、「無理なこと言え」てって。
なのかに取おに行きたら、「何のことだかい」てって、
また言った。
ようかに取おに行きたら、「焼けてしまった」てった。
ここのかに取おに行きたら、
「ここにはごんしぇん」てってしまったて。
とうかに取おに行きたら、「疾う疾う返した」てってねえ.
そいで自分の鉈にしてしまったって。
そいで、昔こっぼり米の餅。

 さて、こうして同じ日に仲間の話を聞きながら、その後はどうしたことか、いくら捜しても山陰両県では同類に出会うことはこれまでのところないのである。
それでは同類は、いったいどこで伝えられているのであろうか。実はこの話は、主として東北地方で語られていたものであるらしいのである。この話を最初に記録しているのは、江戸時代の旅行家で民俗学者であった菅江真澄(1754~1829)であった。三河出身の彼は、北海道・東北・信濃地方を旅行し、その見聞を遊覧記としてまとめている。そのうちの一つ、『はしわのわか葉』の天明8年(1788)5月10日の日記に、問題の「鉈取られ物語」が次のように名前だけではあるが登場している。

‥…十日 寝坊して、日がたかくなってから起きた。きょうは、この江刺郡黒石の行道の家で人々と歌などをよんであそび、あす、胆沢郡の六日入 (前沢町) に行こうなどと話していると、至急の用事だと、手紙を持った使いが来て、これをみた常雄は帰って行った。昨夜からここに盲法師たちが泊まっているので、それをよび出すと、南部閉伊郡の浦の人で、宮古(岩手県宮古市) の藤原というところの者だという。「さあ語れ」というと、紙張りの三弦をとりだし、声をはりあげて、「尼公物語」 といって、佐藤庄司の家に弁慶、義経が偽山伏となって宿った浄瑠璃を語り、終わると小法師がでて、手をはたとうって、「さあ、ものがたりを語りましょう」と言う。「黄金(こがね)砂(すな)まじりの山のいも、七駄片馬(しちだんかたま)ずっしりどっさりとひきこんだるものがたり」 また「ごんが河原の猫の向面(むかつら)、さるのむかつら」「鉈(なた)取られ物語」「しろこのもち、くろこのもち」などの早物語を語ってくれた。……

 このように文章の後半の部分に、はっきりと「鉈取られ物語」の名が見えるのである。しかしながら、これは題のみを記したもので肝心の内容がどのようなものであったかという点については、残念ながら不明である。ところで、三谷栄一氏の書かれたものに、多分この正体であろうと考えられるものが紹介されているので引用しておく。

 ……また、「鉈とられ物語」 というのも山形県庄内地方の「物語」にある。

一つ物語り候。隣の鈍左衛門へ鉈一丁貸したんの物語
三日目に取りに行ったば そんだ鉈見たこともない。
四日目に取りに行ったば 用もない鉈借りたことない。
五日目に取りに行ったば 何時も鉈は借りたことない。
六日目に取りに行ったば そんな無理な鉈借りたことない。
七日の日に取りに行ったば 何んにもない鉈借りたことない。
八日の日に取りに行ったば そんな埒(やづ)も無い鉈借りたことない。
九日の日に取りに行ったば そんな苦情な鉈借りたこともない。
十日の日に取りに行ったば そんな鉈とんと借りたこともない。
となりの鈍左衛門に とうとう鉈を取られたんの物語。

というのが伝わっているが、おそらくこの物語であったかと想像される。……(「語り物」-『日本民俗学大系』第10巻 昭和34年 平凡社-)

 三谷氏もまた早くからこのように指摘されているのである。ただ、この方には一日目と二日目の部分が脱落しているのが惜しまれるとはいえ、比較してみると一目瞭然、明らかに美保関町のものと同類であることが分かる。
さて、庄内地方のものは早物語として親しまれていた。先学の助けを借りて、簡単にこの早物語について説明しておく。
本来神事に関するカタリゴトから発達したもので、「てんぽ物語」とも言われ、早口で一気に語られる語りの意。昔話と元は同根であったと考えられる。そして、この語りものは室町時代には既に存在していたことが確認されており、正月にまず語られなければならなかった。語り手の多くは目の不自由な族芸人たちで、義太夫などとともにこれを語っていたのであったという。(三谷栄一氏「語りもの」-同前書より意訳)

 こうしてみると、早物語の本場ともいうべき、庄内地方において、あくまでもこの「鉈取られ物語」は、早物語として語られていたと見るべきなのである。
一方、わたしの収録した美保関町の「鉈取られ物語」は、早物語ではなく昔話として語られていた。しかも、同じ地区で全く偶然に二人から同一の話を聞くことが出来たことは何を意味しているのであろうか。そして、今一つ、東北と山陰という遠く離れた二つの地域に同種類の話が存在している意味についても、やはり、考察しておかねばならないと思う。
七類地区で二人の方から同じ「鉈取られ物語」を聞けたのは、全く偶然なことではあった。しかも、それ以後いかに努力しても再びこの話は、他のところでは見つけることが出来ない。とは言え、同じ地区で同類の話が存在していたということは、重要な意味を示しているものと思う。つまり、昔はこの話が少なくともここ美保関町においても盛んに語られていたことを、これは証明しているとは言えないだろうか。なればこそ、このように互いに気づかず同種の話を別な伝承者が語るという事実が認められるのであろう。
そこからさらに発展させ考察を進めてみると、この話は以前、なかなか人気のある話種として、当地区近辺で語られていたものであろうと推察したい。
今一つここで問題にしたいのは、東北と山陰とこのように非常に離れた地域でありながら、なぜ、同一の話が存在しているのかということである。
推測の域を出ないが、大きな理由は美保関地区は庄内地方と同様、日本海側の漁村であるからではなかろうか。このことは日本海を媒介として、昔から陸路では困難な人々の交流が、案外容易だったと考えられるのである。
鎌倉時代に源を持つ物資交流の役を果たした回船は、封建性の強かった江戸時代でも北前船、西回り航路などと称されて盛んであり、両地区でもそのような交流が見られた模様で、これは陸路の交通からでは全く考えられなかったことといえるようである。そのような結果、東北地方で人気のあった「鉈取られ物語」が、ここ山陰の地にもたらされたと推測することは決して不自然ではないように思われる。
なお、この話が東北生まれであると考えられる点について、ここらで少し説明しておく。島根県のものをよく見ると、数え歌形式でリズムのある構成になっていることに気づく。そこからこの話は、単なる昔話というよりも、歌、あるいはそれに近い語り物といった性格を認めることが出来る。
すなわち、当地では早物語は発達していなかったので、この語りを受容するには、あくまでも昔話としての形態にアレソジすることが必要だったのであろう。それが美保関町に残る語りとなったものと思われるのである。




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