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ケヤキを伐った話(昔話)

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おはなし

語り手 仁多郡奥出雲町大呂  村尾 澄子(大正15年生)

 六日市町(現・吉賀町)抜月(ぬくつき)地区にあるケヤキの木の話です。これは昔、ヤクロ鹿の骨を埋めたところに生えたもので伐ってはならないと言われていました。
 ところが、昔、偉いお方だった親方さんが、
「月和田があの木が目ざわりで見えん。下の土地に広く広く蔭をするけえ、伐ってしまえ」と言われたので、木挽きたちが集まって伐り始めましたけれど、明くる朝、行ってみますと伐ったところがちゃんと元通りになっています。また新しく伐ります。三日伐っても、朝行って見れば元通りになっていますから、木挽きたちが恐れてしまって、
「こういうわけなので、木を伐ることはやめさしてください」と頼んだそうです。
 すると、親方さんは見張りを立てさせたそうです。そして木挽きにその日も欅を伐らせました。
 夜、見張りが見ていますと、白い髪をして白い直垂(ひたたれ)を着たおじいさんたちが七人も出てきて、何とかぶつぶつ言いながら、コケラ(木の伐り屑)を拾ってひっつけておられます。
 それで見張りの者が寂しゅうなって帰ってしまい、明くる朝見たら、木はまた元のようになっていました。
 親方さんは非常に怒って、
「何であってもわしの命令に背くちゅうことは、いけん、絶対に伐ってしまえ。人数をかけてコケラを焼いて、木挽きを増やして夜も昼もいっときも休まんこうに手斧(ちょうの)を打ち込め」と命令したそうです。
 親方さんの言われることなので、みんなそういうふうにして、コケラを焼く人はケヤキの枝の届かないところまで運んで焼きました。そして木をとうとう二日二晩伐り、三日目に伐り倒したのです。そのときに、切株のとこから七人の直垂を着た小人が、煙のように出てきて、嘆いてどこかへ行ってしまいました。
 みんなはいよいよ恐ろしくなって動きがとれませんでしたが、親方さんは、
「さあ、伐ったから、わしの願いが届いた」と非常にお喜びになったそうです。ところが、コケラを焼いた人が夜見たら、七人の小人たちが、コケラの灰を、手へすくってはかき回して嘆いているのだそうです。
「許してつかあさい。許して……」と言って、焼いた人が、家の中へ転げ込みましたが、それぎり具合いが悪くなって血を吐いて死んだそうですと。
 そして、それから雨が長く長く降り、上がってから見たら、切株に芽が一尺ぐらいも伸びていたそうです。
 また、木樵りに携わった人はよその村からも集めて三十人ぐらいたそうですけれど、みな気がおかしくなったり、苦しんで死んだりしてしまいました。そして、命令した親方さんはどうしたかといえば、夜も昼も、
「熱い熱い熱い熱い。わしを冷やせ、わしを冷やせ」と言ってねえ、水を飲ませると水が煮え湯のようになり、どうしても冷えなくて、七日七夜も苦しむので、年寄りが心配して、灰のところでお経をあげ、それから切株へは御幣を立ててお祭りをしたそうです。しかし、親方さんは、「熱い、熱い」と言いながら、とうとう死んでしまわれましたが、身体は燃えさしのように黒うなっておられたそうです。
 ですから、いくら権力があっても、人がいけないと思ったときにはしてはいけません。お天道さまをまっすぐに見られるように生活しなければならないのです。

(平成4年8月26日収録)


解説

 田中さんは石見弁独特のはっきりとしてていねいな口調であった。そのことは本文をお読みいただければよく分かることと思われる。
 さて、いつものように関敬吾博士の『日本昔話大成』で、この話の戸籍を紹介してみる。直接、その話型を示すものは認められないが、「本格昔話」の新話型として次のようになっているのが、田中さんの話に関連の深いものといえる。

 本格新四〇 大木の秘密

 A 1、不作で庄屋が木を伐ることにする。2、小木ができたので伐採を延期してほしいと木が頼む。3、庄屋は約束する。4、翌年は豊作になる。伐採せずにすむ。
B l、(a)堂をつくるために(b)長老の病気の原因は水木という鳥の言葉を聞き、木を伐るが血が出るなどして倒れず、翌日は元通りになっている。2、木同士の会話を聞いて塩水をかけたりすると木が倒れる。

 田中さんの話では、木を伐り倒す方法は親方の考えで行うことになっており、鳥や木の会話から知るという戸籍の原則からは少し距離がある。また、木の精ともいうべき直垂を着た七人の老人が現れたりなど、なかなか手の込んだ舞台装置が準備されていて、スケールの大きい話になっている点でも、戸籍からは離れているようである。
ところで、この話は鹿足郡六日市町の抜月(ぬくつき)地区にあるケヤキの話というように、はっきりと地名が述べられている。このように事実あったこととして語られている話は、民話の分類からいうと「伝説」なのである。念のために弘文堂発行の『日本昔話事典』(昭和五十二年)から「伝説」の説明を引いて、分かりやすくその定義を箇条書きにまとめてみる。

①具体的な事物に直接結びついていて、真実と信じられてきた伝えである。
②真実性を持つ点では神話に近づいていると言えるが、神話が聖なる神の世の物語であるのに対して、これは人間、まれにはそれに準じた時代の伝承である。
③伝説は人間の時代の伝承という意味で昔話に近いが、しかし、昔話は虚構の世界の物語であり、伝説はあくまでも真実と信じられているところに大きな相違がある。
④伝説は特定の時代、人物、地域と結合し、その特定の事物を証拠として伝えるのに対し、昔話は「昔」「あるところ」「ある人」などと一般的、不確実な時代、人物、地域を舞台としている。

田中さんの「木を伐った話」は、本来昔話だったものが、当地で語られているうちに、いつのまにか抜月地区のケヤキと結びつき、そこで起きた出来事として伝説化していったものと考えられる。そしてそのことを補強するかのように、この話の最初に「ヤクロ鹿の骨を埋めたところに生えたもので伐ってはならないと言われていました」の部分が加えられている。ヤクロ鹿というのは、この吉賀(よしか)地方(旧・六日市町と旧・柿木村を合わせた地方の別称)で知られている伝説上の悪鹿を示している。
ここらで簡単にそれに関連した言い伝えを、まとめて紹介しておく。

 文武天皇のころ(六八三~七〇七)、八岐大蛇(やまたのおろち)の化身で八足八畔(はっそくやぐろ)の凶暴な大鹿が筑紫国(つくしのくに)(広義には九州地方一帯、狭義には現在の福岡県を指す)から当地の大鹿山(柿木村の大鹿山、あるいは六日市町立戸(たちど)の大岡山)に逃げてきた。宣旨(せんじ)によって藤原両郷(ふじわらのもろざと)と北面の武士の江熊三郎が追いかけて討ち果たした。この霊を神にして祀ったのが吉賀町七日市や同町柿木村木部谷にある奇鹿(くしか)神社であり、鹿足郡の地名もその足跡から起こり、さらに吉賀というのは鹿足の鹿を省いて足賀としたものの、「足」は「悪(あ)し」に通じるので「吉(よ)し」に代えたものだという。

 この伝説は江戸時代に石見の国田丸村(現在の鹿足郡六日市町田丸)の庄屋尾崎太左衛門(文化九年=一八一二年没)によって書かれ、後世、吉賀下領の代官だった渡辺宝が、さらに調べなおして文政四年(一八二一年)に書かれた『吉賀記』の中に記されており、当地ではよく知られている。なお、この書について、ちょっと紹介しておけば、吉賀地方の地名や神社、仏閣、城主館跡、産物などについて述べられている。
そういうことであるから、ヤクロ鹿とのからみを持たせたケヤキの木にまつわる話とすることによって、伝説としての補強がなされていると考えられる。
さて、話そのものは、戸籍よりもやや複雑な様相を見せているようではある。すなわち、偉い方だとこの地方では自他共に認めていたらしい親方が、強引にその権力を誇示しようと、いわくのあるケヤキの木を伐り倒したのであるが、結果は神霊の罰を受けることになる。まずケヤキを切る作業に従事していた者の多くが、おかしな病にかかって死亡し、伐ることを命じた張本人の親方さんも七日七夜も熱病に苦しんで死んでしまうのである。
語りでは「身体が燃えさしのように黒うなっておられたそうです」となっていることからも、神霊から下された罰の大変な大きさが分かる。田中さんは、話の最後を「ですから、いくら権力があっても、人がいけないと思ったときにはしてはいけません。お天道さまをまっすぐに見られるように生活しなければならないのです。」と納めておられるが、ここに祖先の人々の子孫に伝達しようとするメッセージが読みとれる。それは「人生を強欲で通してはならない。常に謙虚な姿勢で送りなさい」というのである。直接話法ではないけれども、伝説などではこうして柔らかいオブラートに包んで、先人の人生観をさりげなく表現させている。話を聞いた人々は特に反発するわけでなく、こうしてこの話の精神を何のためらいもなく自然に受容する、ということになる。昔の人々の生活の知恵は、このようにして民話の中に用意されていたのである。
六日市町に伝えられていたこの話は、戸籍からはやや距離を置いてはいるものの、なかなか味わい深い話なのである。


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